った。二年後、ゴーリキイは社会民主党と関係をもちはじめ、二十余年に亙るレーニンとの友情が結ばれるに至った。
ロシアの社会は急激な濤に押され、世界史に顕著な一九〇五年の一月九日の日曜日の事件では、ゴーリキイは罪なく失われた民衆の生命に対して沈黙していることが出来ず、檄を書いた。ペトロパヴロフスクの要塞監獄監禁が、その行為に対する報復であった。この時ゴーリキイが死刑を免がれたのは、ゴーリキイ処刑反対の大デモンストレーションがロシア国内のみか、ヨーロッパ諸外国で行われたからであった。
翌年、解放運動の資金を得るために、ゴーリキイはアメリカへ講演旅行をやった。この計画は本国からの邪魔が入り、ものにならなかった。ゴーリキイはこの旅行に正式に結婚していなかった妻を同伴したところ、アメリカの清教徒婦人の間からそのことで、講演開催に反対する運動がはじめられたのであった。
これらの活動でゴーリキイの肺病が悪化した。この旅行の帰途ゴーリキイは政治的移民として、イタリーのカプリ島に行き、一九一三年ロマノフ王家三百年記念大赦令が出るまで八年間カプリに止ることになった。
イタリーでゴーリキイはレーニンによって高く評価された小説「母」を書き、「オクロフ町」を書き、いくつかの傑れた短篇小説でレーニンの新聞『星』を飾った。ルナチャルスキーと労働者学校を経営したのはこのカプリ島時代である。そのことの当否についてレーニンは度々信頼に充ち、而も正確な判断にゴーリキイを立ち戻らせるための手紙を送っている。
世界を震撼させた「十月」がやがて来た。
ゴーリキイは、当時自分の主宰していた『新生活』紙上で、この新しい人類の世紀の正しい理解をひろめるために、又、レーニンに対する逆宣伝を破るために精力的な活動を惜まなかった。彼は人民委員会の顧問となり「学者の生活改善委員会」の長となり「世界文学叢書」刊行責任者となり、飢饉救済委員会長として、国際的なアッピールを行った。ロシアの大衆を圧していた限りない不幸、その軛がはずされたこと及びゴーリキイ自身物心づくとからそれによって心臓をひんむかれるような苦痛を感じて来た沼のような無智、野蛮、屈従が、今や追っぱらわれようとしていること。ゴーリキイは誠実な心を持つ一人の作家としてそれを認め、歓喜せざるを得ない。一方に、当時のゴーリキイとしてはレーニンの考え方に十分納得出
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