られていると思われるのである。
 あの作品は、今日に到る日常生活の雰囲気の急転の初めの時期、客観的にも正しいと納得することの出来る生活の基準を模索していた一般の心理が、作者の或る意味での敏感な社会性に反映して生れた作品であった。作品の題名にも現れている作者の体勢が、人々をその内容に向っての興味、期待にひきつけたのであったと思う。生活の在りように対する関心では、この作品と読者の良心とが同一面に顔を合わせているかのようであって実は決してそうでないものが、「生活の探求」の底に埋められてあった。

 あの作品の主題は主人公駿介にとって最も必然的であるべき事物のありよう、その事情に従っての現実的な心持の動きかたという発端が、先ず一ねじりされたものの上に展開されていた。その一ねじりは作者にとってそれから後をプラン通りに運ぶ便宜上役立ってはいたが、あるがままの現実に面してそれを掘り下げて行こうというには、主題が現実の多難性の前で捩れて、裏がえしとなって、読者の心が求めているものとは背中合わせな本質となっていた。全篇の組立てが、作品の主題に於る微妙な一点での一ねじりあって初めて可能であるというこの作者の方法は他の作品にも見出される特徴である。そのような現実に対する作品の本来は負の骨組みを覆うて、作品の現実性を信じさせる条件としてこの作者は一方で小説の細部の具体性は実に洩れなく書き堅める用意を忘れないため、一層その主題の一ねじりに於て加えられている作者の意識しての手の力は、人生への強引、文学への強引として印象づけられるのである。
 二ヵ月ばかり前の『新潮』に同じ作者の「伊豆日記」というのがあった。伊豆の温泉での文壇交友日記のようなものであるが、その中に、「プチット・ファアデットを読む。この小説は自分には不満だ」とあり、その不満の理由として、ジョルジュ・サンドが、この作中でカイヨウという農夫が若者ランドリイに牛の扱い方をどういう風にするか自分でやって見せたとだけしか書いていず、そのどういう風にするかを実際に描き出していない点をあげている。岩波文庫では「愛の妖精」という題で訳されているこの物語の、条件的ではあるが否めない全体の美しさ、不仕合わせを、そうでないものにかえてゆくファアデットの女らしく而も健気《けなげ》で人生的な気力とそれを語る作者の情熱の味いを知っている人々にとって、正直なと
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング