らないという表現よりも、「諸君は」と、一括した青年群として呼びかけられ、一括した精神と行動との必要に向って注目することを求められている。そして、その声は大変大きくつよく響いているのだけれど、現実には、この間、『都新聞』に詩人の萩原朔太郎氏の書いていられたような青年の無気力という現象があらわれてもいる。
 ここに極めて入りくんだ現代の青春の問題が潜められているのではないだろうか。呼びかけの声はちょうど往来を私どもが歩いているとき頭の上できこえるラジオのラウド・スピーカアの声となって空に響いてはいるけれど、それに交る電車の音、群衆の跫音もあって、何となし心にずーっとしみこんで来ない。語られていることにも種々様々の疑問があって、それをただしたいにも時の流れの瀬音は騒然としていて、そんなしんみりとした時間のかかるものの追究のしかたは昨今はやらないという気風もある。そういうところに一言や二言で云いつくし現しつくせない若い精神の苦悩があるのではないだろうか。

 この間安倍能成氏が一高の校長となったときの何かの談話で、現代の青年はさまざまの外面的な慰安を求める代り、友情に慰安を求めよ、という意味を
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