業績を重ねながら、目前の日本文学一般がおくれていることへの不満のはけくちを、日清戦争後の日本がさらにシベリアへ着目していた当時の国士的な慷慨のなかに見出した。そして、朝日新聞社からロシア視察旅行に赴き、あちらで発病して、明治四十二年五月帰途の船が印度洋を通っているとき病歿した。
 二葉亭の悲劇は決して旅の半ば船中でその生涯を終ったことではない。彼の悲劇は、あれだけ日本のために文学をもって働きかける力をもっていたのに、周囲のおくれていたことに本質的には敗けて文学の理想は大きく高く懐きながら、その道から逸れて行った心理のうちにある。通俗の目にすぐ肯ける男子一生の業にうつったところに悲劇があるのである。
 現代の世界の波濤は、二葉亭四迷のこの悲劇を再び案外に多くのところで、若い命の上に反覆しようとしているのではないだろうか。
 二葉亭四迷の行うべきであった義務は、日本の文学の成長を根気づよく支持し、援け、力の限りそのための養いとなる条件をふやして行って、自分の理想とする文学創造の可能のためにたたかうことであった。それにくい下って離れるべきでなかった。文学は、まぎれもなく男子一生の業として足りてなおあまりあるものであるということを明かにするべきであった。文学はそれだけの命と社会的奥行をもつものである。
 二葉亭四迷もこの面からみれば、歴史の力に消耗されることを自身にゆるした瞬間、悲劇の一歩をふみ出しているわけである。
 現実に面してひるまない精神ということと、何が出ようとも何とも感じず常にそこから自分にとって一番好都合の部分をかすめとって来る機敏さというものとは、全然別様のものである。歴史に働きかける力としての存在ということも、いつも立役者として舞台の真中に華々しく登場しているということとまるでちがう。

 科学者が真に科学者であるためには沈着な勇気と歴史への洞察と人間は結局合理的な生きものであるということへの信頼とを、つよく胸底に蔵さなくてはならない時代がある。科学の世界にだって、流行というものはある。それが近代の宣伝術というものときりはなされない時代性格である。昔錬金術というものがあって今日の人の目はそれが科学でなかったことを知っているのであるが、それなら何人の努力の成果に立って、きょうの科学は錬金術の非科学性を明らかにして来たのであったろう。決して決して錬金術師達の口伝からではなかった。錬金術が背後の楯としていた中世の宗教の暗い恐怖すべき力と向いあって、しばしばその恐怖に圧倒されそうになる自分ともたたかいながら、錬金術への疑問を、現実があらわす客観的な真理にしたがって謙遜に解きにかかって、おそらくは目立たぬ生涯を硫黄くさい幼稚な設備の実験室で費した無名の何人かの人々の業績の永年のつみ積りを、忘却することは出来ないのである。
 美しさはそのようなところにもある。そのような歴史への働きかけは一見まことに見事らしくないが、しかも大きい河が河の中にやがてそこに都市の建てられる三角州をつくるとき、どの砂粒がその大きい自然の作業に参加するに余り艷の目立たないただの砂粒であることを自身にとって下らないこととしただろう。
 新しい日本の生活というものは、希望とか要望とかいう生やさしいものではなくて、この刻々のうちに木炭切符のなかから砂糖切符のなかから湧き出して来ている現実である。青年の成長力にとって、下宿の食物は益々空腹を充すに足りないものとなりつつあるその現実から、うそのない新しい日本の姿が立ちあらわれて来ている。
 もし青年に新しい日本の担い手としての期待がかけられるのならば、それらのあらゆる現実を落着いて自分たちの経てゆく生活史のなかにうけとりつつ、歴史に消耗されず、そこからめいめいの建設を見出してゆかなければならない、そのような今日の時代の鍛錬が今日の若い世代を、小市民らしい自己偸安に成長した前世代人より、立ちまさった客観力も具《そな》わった生活者にするであろうということ以外にはあり得ないと思える。
 青年の精神は豚ではない。くわせば何でもくうものではないであろう。青年の精神はどっさり並べられた空壜ではないであろう。注ぎこめば何でも入る、そういうものではないであろう。
[#地付き]〔一九四〇年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「法政大学新聞」
   1940(昭和15)年7月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://ww
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