本の看護婦は、その人々の気立てによって、親切でやさしい人も少くないけれども、一般として、訓練が不足しているということは定評でした。ですから、昨今は、日本の看護婦の能力の水準を国際的な高さにまでひき上げるための規則もやかましくなったわけでしょう。
 日本の看護婦が欧米の看護婦たちのようによく訓練されていず、しっかりしていないと、ひとくちに云っては、日本の現実を理解しないことだろうと思います。これまで、日本の婦人は、子供のときからお嫁に行く仕度ばかりさせられて育って来て、自分で職業を選び、その職業に対して社会的責任を感じながら自主的に成長してゆくというような生きかたは、例外でした。日本の婦人の大多数が、まだ社会的に経済的に独立して生活してゆく習慣をもっていないこと。この事実が、婦人の職業の一つとして看護婦という立場をとった場合にでも、何となし先生に対して依頼心のつよい、命令に従順でさえあれば、看護婦としての範囲とその責任において、臨機に病人を扶けてゆく積極性をかくわけでしょう。
 病気で苦しいとき、体さえ自分で動かせないとき、看護婦のまめまめしくて、統制のあるたすけの手は、たとえようのない慰安です。そのために、日本の看護婦の過労は、もっともっとどうにかされなければならないと思います。どこの病院でも、看護婦は不足です。結核療養所の看護婦が、過労していないという例は一つもありません。「病気と私」を読んだすべてのひとは、患者が床の上におとした物を自分で拾うことを禁じている。そのように十分の看護婦が配置されているサナトリアムの設備におどろくのです。
 看護婦というと、日本のこれまでの感情では何となしあらゆる困難に対して献身的で犠牲の精神にしたがっている人々であり、おとなしくやさしく患者のたのみをきく人ばかりを期待しているようです。しかし、看護婦は、どういう場合にも病人の犠牲となるものではありません。病人が癒ってゆくための力づよい指導者であり、平静で明るい協力者であり、つまり病人の支えです。それだけの人間的な内容がいります。ですから、そういう職業の性質として、社会は、看護婦の経済的・精神的生活の安定のために、はからなければいけないと思います。
 アメリカやイギリスその他の国々で、看護婦の私的生活は、職務からすっかりきりはなされていて、例えば結婚して妊娠すれば、母となるという仕事は
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