出来にくい。生命の否定・人格無視・人種間の偏見を根幹とした軍事権力の支配とその教育のもとで、どうして若い幾千・幾万のこころが、個々の人間の尊厳や自我と社会現実との関係をつかむことが出来よう。
そういう意味で、一九四五年以後日本の若い精神をとらえた自我自意識の問題は、日本の悲劇として独特のニュアンスをもった。「チボー家の人々」のジャックはそのときまでには次第に確立しかかっていた人間性、よりひろくより総合された社会的理解、理性に立って一大衝撃としての第一次大戦を経験した。悲惨事ながら、それは悲惨事として客観されるだけ成長したジャックの精神によって、経験された。したがって、ジャックその人の生死にかかわらず、人類の経験として、それは社会的に摂取された。
日本の戦時中に育った若い心は強いて無智に置かれた。非現実のヒロイズムで目のくらむような照明を日夜うけつづけて育った。自分としての判断。その人としての考えかた。社会生活におけるそのことの必然を認めることさえ罪悪とした軍部の圧力は、若い精神に、この苛烈な運命に面して自分としてのすべてに拘泥することをいさぎよしとせず、それをみにくいことと思わせるほどに成功していた。だから一九四五年以後にこれらの若い精神がにわかに自己の人間性・個性が社会的に復権することの当然さを発見したとき、さけがたい混乱を生じた。
日本では、一九四五年の八月からあとになって、やっと人間と社会の真実について話ができるようになった。民主的な日本への転換がいいはじめられ、ブルジョア民主主義という言葉が、半封建的日本という表現とともに、常用語のために生れた。軍国主義の餌じきとされて来ていた日本人民の人間性・知性が重圧をとりのぞかれてむら立つように声をあげはじめたとき、自我の確立とか自意識とかいうことが言われはじめたとき、そういう角度を手がかりとして自分の人生を見なおしはじめた若い人たちのうちで、何人が「チボー家の人々」をよんでいただろう。――言いかえれば、ヨーロッパにおける自我や自意識の課題が第一次第二次大戦を経た一九四五年までにはその社会的ファクターをどのようにまで発展させて来ているか、ということについて知る時間のあった人々が、どのくらいあっただろうという意味である。
日本の青春は云いようもなくむごたらしく扱われた、それこそ半封建社会の野蛮さそのものであった。今年二十歳をいくつか越したばかりの若い人々は、戦争末期には丁度中学上級生かそれより一つ二つ年かさであったにすぎない。それらの人々は云わばもう子供のころから軍歌をきかされて育った。常識的な大人を恐怖させるほど率直な真実探求の欲望にもえる十五六歳より以後の年代を、これらの有能な精神は、そのままの真率さで戦争のための生命否定、自我の放棄へ導きこまれた。専門学校では文科系統の学徒が容しゃなく前線へ送り出され、理科系統のものだけが戦力準備者としてのこされた。何年間も否定されつづけて来た若き生の、肯定と回復の一つの気の如く、不安なつつみどころのない表現として、自然と自意識の問題を語るとき大多数の人は十九世紀より現世代にこの人間課題がどう進展して来ているかさえ見おとした。こういう人間問題について特に敏感な文科系統の若い人々が、少年期と青年期の境に戦争にさらされたということにさらに大きい混乱の動機がかくされてもいた。自我と自意識の課題は、自我と社会的現実とのあるとおりの諸関係から切断して、どんな発展もない。インフレーションやアルバイトときりはなして、今日のわたしたちの学習生活が存在しないとおり、もし、今日の若い人々が経済事情をけとばしたような抽象的な学生生活を語るなら、その虚構の観念性を、誰よりも先ず若い人たち自身が軽蔑するであろう。
先ごろ何かのグラフィックに大学教授の老先輩が男女学生を集めて面白可笑しく学生アルバイト漫談をしている記事がのっていた。そのなかで、男妾のようなことをやっているものがあったそうだとか、闇の女をやっているものがあるというがとか、愉快な笑話ででもあるように老先輩が上機嫌で云っていた。大変丁寧な、身分のちがいをあらわした言葉で対手をしている幾人もの学生のうち、一人として、その態度に抗議をしていなかった。それは現代の日本の若い精神のおどろくべき一つの表情ではないだろうか。
アルバイトをとおして学生は勤労者化しつつある。アルバイトをとおして、学生の小市民性は危機にさらされてもいる。ここにこそ具体的な自我と自意識の発展と崩壊のテストがある。もし、そんな年より相手に議論しても大人気ないと判断したのなら、それだけの価値しかもっていない対手と話すらしいあたりまえの口のききかたをしていてよい。大学教授であり、その人々の直接か間接かの先生というところに、日本語の封建的特
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