政治と作家の現実
宮本百合子
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《》:ルビ
(例)捗《はかど》っている。
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(例)中心とする|労・農通信員《ラブ・セル・コル》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)にかわ[#「にかわ」に傍点]までたべたソヴェト市民に、
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一
深大な犠牲をはらって西欧におけるファシズムを粉砕したソヴェト同盟では、平和が克復するとすぐ、物質と精神の全面に精力的な再建がはじまった模様である。たとえば、ドニェプルの大発電所は、第一次五ヵ年計画時代の全ソヴェト人にとってじつに愛着と誇りの象徴であったが、ナチス軍がドニェプル地区に侵略してくる危険が迫ったとき、大発電所はそれを建設した労働者の手によって破壊された。その記事を新聞でよんだとき、果敢な人々の行動に心をうたれたものはけっして一人二人でなかったろうと思う。またふたたび自分たちの手でこれを造る日を、どんなに心に誓って、それを破壊したであろうか、と。そのドニェプル発電所の再建からはじまって、スターリングラードの名誉ある復興、ウクライナ全地域、ドン全区にわたる生産復興は、短波できくニュースでもわかるとおり世界をおどろかせる能率で捗《はかど》っている。
文化の分野でも、戦後における再検討、より高い段階への発展のための研究がさかんに着手されている様子である。『雄鶏通信』十一月号やその他の雑誌にも、ごく断片的な報道がのせられた。除村吉太郎氏の翻訳で、私たちはレーニングラードの二雑誌『星』と『レーニングラード』を中心とするジダーノフの報告をよむ機会をもった。同時に、新日本文学会から「現段階における中国文芸の方向」という、毛沢東が一九四二年五月延安で行った文芸座談会の記録も刊行された。私たち日本の作家は、計らずこの興味のふかい二つの記録をよむ便宜を得た。そして、深く感じたことは、現代に真に民主的になろうと正直に努力している国々では、どんなにそこの人民の問題として、文学その他の芸術を重大に評価し、研究しているか、ということである。フランスや、ナチから解放された戦後の若いドイツがやはり民族の課題として、文学・芸術の問題を本気で扱っている。それらの事情も、きれぎれではあるが、日本の私たちにきこえてきはじめた。日本で、やっと半封建の圧力からのがれはじめた人民が、民主社会を実現しようとする複雑な努力のかたわら、どんな自身の文学・芸術を持とうとしつつあるだろうか。文学者たちは、そのためにいかなる貢献をしているだろうか。ジダーノフの報告や毛沢東の記録は、私たちの反省と研究心とを刺戟するのである。
ジダーノフの報告の前半は、主として、ゾシチェンコの「猿の冒険」という作品とアンナ・アフマートヴァの詩の批判に当てられている。ところが、日本の読者にとって、ゾシチェンコはほとんどまったくなじみがない。作品で翻訳されているのもおそらくないだろう。これは日本の出版屋が、目ざとくて、すこしでも評判な作品なら、最も誇大にかついで翻訳を売りだしてきた慣例に照らしあわせてみて、なかなか興味ふかい現象であると思う。つまりゾシチェンコは、少くとも外国へ、これがソヴェト作家の代表であるとおし出すにしてはあまり陋小な文士であったのだ、ということである。これは私たち日本の作家が外国人に、誰を推すか、と訊かれたときの心持を思い出してみればよくわかる。
ほんとうの文学作品であるとはいえないけれども、国内ではなにかの理由で存在している作家や作品というものは現実にある。現在日本のジャーナリズム文学を大幅に流れているデカダンティズムやエロティシズムの傾向とその作家たちは、けっして日本の現代文学の代表として推される文学的価値はもっていない。「横になった令嬢」を外国語に翻訳させたいと思う日本人はいない。だが、国内のジャーナリズムにはそういう作品も作家も存在している。文学の問題は、そんな作品が、なぜ今日の日本の社会とジャーナリズムの上で発生し存在するかというところにあるのである。日本でこの文学上の問題を追求すると意外に深刻な答えが出てくる。それは紙の問題である。営利出版は一巻の紙から最も高率な利潤を求め、必ずうれることを求める。その結果一番うれる最低の安全性としてエロティシズムに陥っている。これは出版関係の専門家の解剖である。
『星』や『レーニングラード』は営利雑誌ではない。先ごろ来朝していた作家シーモノフが、日本の出版界にもそれを衷心から希望したとおり、ソヴェト同盟の出版事業は直接に人民文化の仕事として企画され運営されている。どうしてそんないい条件の『星』や『レーニングラード』が、くだらないゾシチェンコに叩頭《こうとう》したり、アフマートヴァを魅力あると思いちがえしたりしたのだろう。ジダーノフの報告には、それらの雑誌の編輯者が、「友誼上」公私混同したと表現されている。ジダーノフは二つの雑誌の編輯者が、苦しまぎれにした弁明を、いちおうまともに受けてやっているのだとしか思われない。なぜならこのごろ、日本のような稚い民主社会の編輯者たちでさえ、まさか社長や主筆の「友誼的」推薦原稿をそのままのせたりはしなくなっている。『星』に編輯会議はなかったのだろうか。『レーニングラード』編輯局はただ一人で構成されていたのだろうか。
読者にうけるという編輯、出版者にとっての最大誘惑に、『星』も『レーニングラード』も負けたのだと思う。作家もこの誘惑には負けやすくて、思わぬ作家が思わぬ顛落ぶりを示した例は、日本にもどっさりある。いちじるしい顛落はしなくても、「中国文芸の方向」のなかで警告されているとおり、作家がこれによって自大主義に毒されやすい。文学上のボスになりやすい。
ゾシチェンコやアフマートヴァが、それなら、どうしてソヴェト市民の一部に好かれたのだろう。ちょうど第一次五ヵ年計画のはじまる前後、一九二〇年代の後半、私がモスクワにいた時分、エセーニンの詩が一部に愛好されていた。エセーニンは、さまざまの問題はあろうとも、詩というものをつくった詩人であったことは疑いない。彼の哀愁にみち、生きる目的を見失った、旧きロシアの魂のメロディーをくつがえす詩は、一部の人にもてはやされた。そしてある種の外国人はソヴェト文学はファデーエフやショーロホフによって代表されるという概括に反対して、いや、今でもエセーニンの人気は大したものだ、と抗議した。微妙な心理から、ニュアンスをもって、エセーニンの名を執拗にあげた。そういう人々はソヴェト同盟の社会生活の心理には、いつでも『プラウダ』の肯定しているのとは違った底流れがあるということを、生活感情が分裂懐疑している自分たちの文化の本質を計らずむき出しつつ、興味をもってつつきまわす人々であった。
ジダーノフの報告にあげられているゾシチェンコやアフマートヴァの例を、二十数年昔にエセーニンについて示したと同じような感情で見る人々も、ひろい世界にはあるだろう。しかし人類の発展を良心的に歴史の歩みにしたがって理解しようとしている文学者にとって、第二次大戦のなかった昔と、その後の今日とでは、類似の文学現象にたいしても同一の感想はもちえないのである。
アメリカ人は日本人よりも、しんから笑う、ということをよりよく知っているといわれる。さまざまの社会的矛盾があるにもせよ、民主的社会としての伝統をもち、市民の権利の実感に立って、自分たちの社会の失敗も成功も批判してゆく自信をもつ民衆は、罪のない大笑いを好む。アメリカの漫画の発達、ナンセンスな遊戯の趣味、軽音楽、サローヤンの軽い文学。それらはみんなアメリカの旺盛な生産力、激甚な自由競争、充実緊張した実務時間の半面におこる文化的要求の反映である。世界生産の諸部門において、ソヴェト同盟はアメリカに近接しつつあるし、ある部分ではそれを凌駕しつつある。勤労人民の生活条件の安定は、最もソヴェト同盟がまさっているだろう。社会主義的民主主義は社会生産の形態を、利潤の要求から直接生産者への享受に進展させているから。そういう社会生活の上に生じた笑いの欲望につづいて、五年間ソヴェト同盟が耐えて来たナチとの闘争は、七百万人の命を犠牲とする苛烈なものであった。永い忍耐のいるこの血闘は勝利で終った。ソヴェト市民は、そのときにあたってどんなに気分の快い転換を欲しただろう。たのしい音楽を! たのしいみもの(スペクタークル)を! そして読みものを! 美味いボルシチと久しぶりでの清潔なシーツとともに、それらを欲した。家具のにかわ[#「にかわ」に傍点]までたべたソヴェト市民に、それらを欲する権利がなかったとでもいうのだろうか。
すべてのアクティヴな作家は、前線に、また前線に近い銃後に赴いて、彼らの文学的記録・通信を送っていた。十数年前には、モスクワの細長い書斎で、日本から来た女を前におきながら、私は退屈してしまったわ、曲芸《チュルク》も見あきたし……というようなことをいっていたベラ・イムベルでさえも、包囲されたレーニングラードに翔んでいって、その都市防衛の生活記録を日記風に書いた。「前線通信員」の歌の文句のとおり、活気をもったソヴェト作家のほとんどすべてが「東に西に、南に北に」祖国防衛のために協力した。戦争が終ったとき、これらの作家たちが、疲労を休めながら、戦争中の文学的収穫の整頓・出版に忙しかったことは想像される。そのために、ソヴェト市民が求めているくつろぎと笑いとに答えるゆとりをもたなかったことも想像される。
このすき間にゾシチェンコが登場したと考えられる。ゾシチェンコは中央アジアのどこかに避難していて、羊の焙肉をたべていて、やせもしなかった体と、脂肪の沈着した脳髄とをもって、やつれはて、しかし元気は旺盛で、笑いを求めているレーニングラードに帰ってきた。そして自分の店をひろげはじめた。
ソヴェト市民が欲しがっていたのは、ハァハァと陽気闊達に笑う哄笑であり、仲間の脇腹を突つきながら、快心をもって破顔する公明正大な笑いであったのだろう。ソヴェト市民の生活感情に、そういうユーモアがないならば、イリフ、ペトロフ二人のような辛辣で人間らしく、しかも新社会の感覚にみちた諷刺作家は生れなかったはずである。ソヴェトの新しい軽音楽を開拓している諷刺的な流行歌(シャストシュカ)の歌手、「陽気な連中」の主役を演じたような歌い手も出ないはずである。今も『鰐』という諷刺雑誌が出ているかどうかわからないけれども、これも辛子《からし》のきいた諷刺雑誌であった。自己批判としての諷刺は、自己批判を発展のモメントとしてはっきりつかんでいるソヴェトの生活感情の中では、自然で健全なあり場所をもってきた。
ゾシチェンコは昔からいつもいかがわしい、清潔でない、裏のぞきふうな曝露を盛った作家であった。「猿の冒険」でゾシチェンコがその猿に経験させたスキャンダルはだいたい想像される。レーニングラードの市民たちは、はじめ求めていた快活な爽やかなハァハァ笑いから、いつしかゾシチェンコごのみの、ゲラゲラ笑い、ヒヒヒヒ笑いに誘いこまれたのであったろう。
一般読者の要求とジャーナリズム編集の上に生じるギャップの現象は、日本の一九四五年末から一九四六年中ごろまでにも生じた。戦時中日本の作家の大部分は侵略戦争の協力者であったし、民主的な作家は強圧されていた生活からぬけたばかりで、いわゆる「浄らかな手」で書かれた新しい歴史の展開にふさわしい文学作品が求めにくかった。そこでその手が血に染んでいないことだけはたしかな永井荷風の作品、谷崎潤一郎の作品などが、当時の営利雑誌に氾濫し、ある意味で今日デカダンティズム流行の素地をつくった。そして、戦争の永い年月、人間らしい自主的な判断による生きかたや、趣味の独立を奪われていた一般読者は、無判断に、ほとんど封建的な「有名への」屈伏癖でそれを読み、うけ入れた。これははっきり自分たちの運命の民主化をおくらすことなのであったが
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