の尊貴と有能性とを腐敗から防衛したことは、映画芸術で「人生案内」の感動的作品を生む動機ともなった。これから日本語に翻訳されようとしている「教育的叙事詩」という卓抜な文学作品となって現れた。そしてソヴェト社会建設の各分野に働く生ける何万人かのアヴデンコとして。
国内戦時代のたたかいの結果、失明し全身不随となった若いオストロフスキーが、同志と家族にたすけられつつ、その生涯の終りに「鋼鉄はいかに鍛えられたか」という長篇小説をのこした。このことは、ただ彼が成功した一人の素人作家であって、十九世紀ロシアのリアリスト劇作家オストロフスキーと、輝やかしい同姓異人であるということだけではない。除村吉太郎氏の紹介に記されているソヴェト同盟の第一次五ヵ年計画達成以後の文学的年代は、その大なる積極面として、はっきり、ソヴェト社会の特殊性によって生みだされ、育てられ、人間となった新しい市民としての作家を、素人作家という形でおくり出したのであった。この時代、ソヴェト文学の消極面が、安易な些末主義に陥ったということは、むしろその一つ前の時代に旧い偶然性によって登場し、あるいは新しい社会への転換に伴う現象的影響で溌剌と亢奮を示した古い社会からの既成作家たちが、彼ら自身の習慣に戻ったのだ、とも見られる。つけやき刃なら、それがはがれる時になっていたとも見られよう。
民主的文学の歴史にとっては重要なこれらの推移を経たのち、第三段目として現在が来た。何年もの間『文学新聞』一枚さえその手には入らなかった日本の作家たち、そしてまたソヴェト文学の熱心な支持者たちが、びっくりするほど多勢の、新しい名前で充満した今日ソヴェト文学の領野があらわれた。これらの作家たちのほとんどすべての人々は、男も女も十月には赤子であった人々である。あどけない、碧い眼をしたオクチャブリャータ(十月の子)であった。ピオニェール、コムソモールとしてソヴェト社会生活のうちに育ち、ラブ・セル・コル活動をとおして、文章というものをかきはじめ、やがて一つの物語を綴るようにもなり、正規の文学活動家となった人々である。ソヴェト同盟の社会的達成そのものとして現れ、最近三十年の新社会の歴史がこれらの人々の血肉のうちに脈うっているのである。農村・工場・学校・諸経営から前線に赴いて民主主義を防衛して闘った勇ましい一人一人の人生が、ナチ軍の狂信的な一個のオットウだの、あわれに強制された一人のカールだのの過去三十年の運命とは、一つも似たところないものであった。ソヴェト同盟の今日から明日への文学の根は、ここにこそある。現代史において人間らしい生活というものにたいして最も意識的である社会から、その成果として成長した文学者、人生の諸経験にたいして最も意識的であるはずの文学者・芸術家「魂の技師」が、自身そこに属しその中から生れた人民生活の価値について、曖昧な評価しかもちえないということが認められようか。
ロシアの近代には、人類精神史の底石をなすようにベリンスキー、ニェクラーソフ、ドブロリューボフらの文学者があった。ゴーリキイという一九〇〇年代からの民衆の革命史そのもののような作家がある。ジダーノフがその報告のなかで、現代ソヴェト作家が、これらの民主的文学の業績を、健全に発展させるようにと力説していることは、当然の上にも当然である。ソヴェトの社会はその諸現実でレーニン、スターリンの時代と経てきた。スターリンの文体は、その明確さ・簡明さ・溢れる生命力の美で、言語芸術の領域に新時代を画している。第二次大戦中の十月記念日に、メーデーに、スターリンがおくった激励の挨拶の、あの人間らしい暖かい具体性、肺腑にしみ入って人々にソヴェト市民たる価値と歓喜とを自覚させるあの雄勁なリズムは、ソヴェト市民が、誇りとするにたりない詩であるだろうか。雄々しくその線を守って倒れた七百万人の生命とともに、それをもったことを愧《は》じるような、そういう表現であるのだろうか。雄勁であるからこそほとんど優美であり、堅忍でありえてはじめて湛えられる柔和の情感にみち、彼らの科学のようにリアリスティックであり、彼らの生産プランのようにテーマと様式の統一にたいして本気である、そういう文学が、彼らの偉大な勝利ののちに生みえないとどうして信じられよう。
日本の作家にとって、眼に浮ぶ涙なしに、このページは書けなかった。日本の近代文学のどこにただ一すじのベリンスキー、ニェクラーソフの伝統があるだろうか。われわれは、たとえようもない貧寒さに立っている。だが、私たちはシューマンの荘重な一つの歌曲を思いおこさずにはいられない。その歌はうたっている。「私は、悲しまない」と。先にゆく人影がないのならば、まずその道を行った人々によって伝統が始められたことを知らなければならない。日本の人民のための文学の狼火として存在したプロレタリア文学運動の歴史と、文学についてのその基本的認識が、よしやどんなに大まかなものであり、不幸な傷をうけているにしろ、絶対的に存在価値をもっている所以である。
三
ソヴェト同盟の作家に、有名なイリヤ・エレンブルグという人がある。一九二七・八年ころメイエルホリドが表現派風の上演をした「トラストD・E」の作者であるが、このエレンブルグの作家としての活動の形は、四〇年までのソヴェト文化の上では、一つの特殊例であったのではないかと思う。エレンブルグは非常にしばしばフランスその他国外に暮し、フランスが中心になって反ファシズム闘争の人民戦線運動をおこした当時、活溌なルポルタージュを発表した。ヨーロッパ資本主義の国々における民主的であり進歩的である集団と、ソヴェト同盟の達成との間の、文化的輸送管のような役割を占めていた。イリヤ・エレンブルグは私たち外国作家の目に、ソヴェト作家中のハイカラーな人の一人として見えていたのであった。
こんどの大戦を境として、ソヴェト全市民の国境は拡大された。シーモノフに「ユーゴスラビアの手帳」という短篇集があるとおり、ソヴェト市民の生活感情の圏はひろげられて、ドン河をこえたことのなかったものが、その岸をふんだばかりではなかった。話できいていたよその国々の民族とその社会生活とを見た。ただそこへ行って、「郷に入っては郷に従え」という生きかたをしたのでもなく、侵略者の暴力で臨んだのでもなく、これら数百万のソヴェト市民ははっきりその眼、その心で、自分たちの建設しつつある社会主義社会の生活面を、旧世界の中世封建の霧がかかった中部ヨーロッパ諸国の人民生活と対比しないではいられない立場におかれたのであった。このことは、ソヴェト社会生活と文化との将来の発展とその独自性の確立のために、じつに深い影響をもっていると推察される。一九三〇年ころ、ソヴェト市民はドイツから機械工をよんで、精密機械製作について学ばなければならなかった。造船技術はピョートル一世がオランダ人から学んだ。ソヴェト市民の淳朴な感情には、民族的偏見というものがなくて、文明的な先進国として、資本主義国の文化にたいするものめずらしさや、判断を加えることを遠慮する感情があった、最も単純な列として、女のひとたちのフランス白粉や靴下への愛好があったように。生産技術の面でのこういう後進者としての自覚は、ソヴェト市民に「追いつけ、追いこせ」の二十五年間を可能にした。同時にまた、文化の面では、アンナ・アフマートヴァのフランス香水の残り香のする老いた桃色と紫色との詩にちょっと魅せられるような気分をも伴った。ソヴェトの美術・音楽の上にあるフランス美術・音楽の影響は顕著で、ショスタコヴィッチのような現代の才能でさえ、初期には混乱したフランスの近代音楽に追随していた。シーモノフが日本へ来たとき、文学者の座談会で、ソヴェトでよまれている外国作家はどういう作家たちか、という質問をうけた。彼はそのとき、アメリカの作家としてスタインベック、フランス古典第一位にバルザック、つづいてフローベール、モーパッサン、スタンダール、メリメ、マルセル・プルーストらの名をあげた。バルザック研究がソヴェトの学者グリフツォフ博士によって行われているというのは肯けたが、「脂肪の塊」「女の一生」のあとは大したもののないモーパッサンが数種出されていて、ロマン・ローランやマルタン・デュ・ガールがよまれていないのは奇妙な気がした。メリメの面白さは、その手法とともにソヴェト作家に与えるもののあることが理解されたが、マルセル・プルーストは、単なるエクゾチシズムでよまれるのだろうか。潜在意識の世界に文学をうちたてようとしたプルーストたちのイギリスでの後輩ヴァージニア・ウルフの生と死とは、私たちに、現代ソヴェト文学の道とプルーストの道がどこかでつながっているものとして理解しがたかった。「スクタレフスキー教授」の作者の心理主義の傾向に、こういう外国文学との近似性が感じられるにせよ、ソヴェト社会は、その構成と運行の基本をフロイド風の「無意識」の決定権にゆだねているのではないのだから、作品もリアリティーにおいて分裂し失敗している。リベディンスキーの作品「英雄」が一九三〇年前後のソヴェト大衆から逃げ場のない批判をうけたのも、彼が新しいおもちゃとしかけた心理分析の興味とそれによる失敗のせいであった。
シーモノフは若い強壮な肉体と精神をもち、人生をたのしむ力も学ぶ力も大きい作家だと思われる。日本へ来て、モスクワへ帰ってすぐアメリカへ行った。シーモノフのような作家がアメリカの社会生活を経験するということは非常に有益である。彼自身のために、またソヴェト社会とその文学のために。なぜならば、日本に来ても、ユーゴスラビアへ行っても、彼には彼の手帳をとり落すほど気を奪われる何ものもなかった。彼の自若性、客観性はテストにかからなかった。それらの国々での社会生活は、彼のもちあわせた判断力を惑乱させるほど豊饒でないから。アメリカでシーモノフは、一個のソヴェト市民とし、一個の社会主義作家として、これまでのどこにおいても経験しなかったいくつかの経験にめぐりあわないわけにゆかない。シーモノフの年代の作家たちは、辛苦にたいし、窮乏と危険とにたいして耐える自信は身につけた。資本主義社会というものの性質も、わかっていると思われている。けれども、ニューヨークの昼と夜とのあらゆる生活の表裏は、けっしてけっして彼の英訳された「昼と夜」と等しいものではない。愚劣なもの、醜悪卑劣なもの、同時に賢明、純良、壮大であり横溢的で、すべての現象が、現世界の全保有量の過半をしめるアメリカ的社会の上に満開している。その失業やストライキや住宅難もともに。ソヴェト作家シーモノフは、このアメリカの巨大な有機体のなかに入って、自身の社会主義的自覚を、自身の人間的内在性すべての亢奮をとおし、自然発生の諸眩惑と誘惑とをとおして、対決させないわけにはゆかない。自身の理性の最大を働かすだけの刺戟をうけるのである。
シーモノフにおけるこの経験は、エレンブルグのアメリカにおける経験よりも、ソヴェト文学にじかにつよい作用をうつすであろう。エレンブルグは、その気質、年齢、外国生活のながい経験などによって、アメリカの社会生活と自分との関係を一定の規準で設定する技術をもっている。コンスタンチン・シーモノフは旺盛な三十歳という年齢、彼の感性的な素質、経験の追求、観察の追求における作家らしい生活性などは、日本の浅く乏しい社会生活の流れの上に立った期間においてさえ、私たちに感受された。彼の横溢性はアメリカの横溢性と向いあい、まじりあって、彼が社会主義の段階に到っている民主国の市民、その人民の作家であることを、どのようなおどろきをもって再確認するであろうか。ここに、一つの大なるみものがある。ジダーノフの報告に警告されている、ソヴェト作家の外国文学追随の弱点というようなことは、シーモノフの一例でも見られるとおり、ソヴェト社会が、人類の歴史にもたらしつつある寄与の大きさによって、国際的となりはじめた若い有能な作家・技術家・諸市民が
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