、ある箇所は、もっとリアリスティックにたっぷり惜しみない描写を与えられるべきである。そういう作品に即した根気づよい研鑽こそ階級人として創作するその動機、主題、手法の統一について、真剣な現実追求を作家に要求する。そして一人の作家を、成長させる。
 トルストイが「アンナ・カレーニナ」を書いていたとき、家出をしているアンナが、愛する息子セリョージャの誕生日の朝、こっそり良人の家へしのんでセリョージャに会いにくる場面にかかった。このとき、トルストイは、不幸なアンナが切迫した愛の思い、屈辱感、憎悪と悲しみとの混乱のなかで、カレーニンの玄関に入ったときヴェールを脱ぐだろうか脱がないだろうか、外套はどうするだろうと、作者トルストイが何日も苦心したということが伝えられている。トルストイは彼の芸術の限界のなかで、しかしリアリティーに忠実に、特殊な感情に必然な一定の行動を探求したのであった。現代の民主的、または社会主義的文学は、リアリティーの把握を、現象と現象との間にある個体的連関の理解という範囲からひろげた。現象の個別的必然の底によこたわる社会的・階級的な歴史の必然をその実感の範囲にとりこむところまでのびてきている。個々の作家の社会的な生活感情は深められ、ひろがり、有機性を高めてきて、個々にあらわれる現象の普遍性を理解し、感じとり、生ける典型として把握するところまできているのである。この点は、とくに第二次世界大戦後の精神における顕著な動向である。人類の文化において、第二次世界大戦後、個人主義が地盤を縮小したということは、個人や個性が消滅したということではなくて、真に個性や価値や自由な発展を確保するためには、その個人の生きつつある社会が、民主的条件を現実にもっていることがどんなに重大であるかということを、学んだという意味なのである。個人生活はいや応なくおしひろげられていて、小市民風な保守の個人主義の枠内で、つじつまは合わせきれなくなってきている。個的[#「個的」に傍点]財布の中の円が百分の一の価値になってきたという事実につながって、A氏B夫人の個的[#「個的」に傍点]経験がいかに複雑微妙に個的[#「個的」に傍点]であろうとも、このような異常な金の価値変化を正常になおすためには、個的[#「個的」に傍点]経験の主張の範囲ではなんの方策も立て得ない。社会・文化の諸現象についても同様であろう、という意味なのである。
[#地付き]〔一九四七年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「文学」
   1947(昭和22)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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