の人々の真情に痛みあふれている良人への愛慕や、その愛の故に、自分の毎日は内容があり生き甲斐もあるものとしていかなければならないと思って努力している若い心と肉体とは、未亡人というよび名をきいたときどんなに異様に感じ、気味わるく思うことだろう。こんなに本気に、こんなに美しく、悲しみから濾過された平静と希望とをもって生きようとしているのに、「未亡人」――。人生建設を全く予想していないような暗い、じめじめした「未亡人」という名で呼ばれるとは――と。現実は誠実であり虚飾がない。今日の現実はあまり大勢あふれている未亡人たちを、もう昔の未亡人型に押しはめておききれなくなっている。それらの若い、孤独な妻たちは、季節季節の色どりを健気《けなげ》に身をつけて、さまざまの職業につき、経済上の自立とともに未来のひろやかな展望をもとうとしている。未亡人という表現が重く苦しく再登場して来る場合は、大抵、その妻たちの生活問題が切迫したときである。したがって母となっている孤独な妻たちの困難が主軸となって、一つの社会問題となるのである。今日の日本では、未亡人の問題がいわれるとき、すべての人の表情に困惑の色が深められる。なぜならこの深刻な課題は、解決がたやすくないどころか、国家の責任で解決されようとは全くしていないのであるから、手にあまる大課題として、いつも第一段からもち出されて来る。今日の常識は、架空の心がまえや美辞を千万遍くりかえしたところで、孤独な母、妻の生活の安定は得られないことを知っている。生活安定の基礎である経済事情を眺めたとき、日本じゅうの律気な生活者の誰にとって、現在が安定しているといえるだろう。経済破壊は全面的で、根本的である。ごく皮相にとりあえずそれらの母なる妻たちに授産場を、と思う人は多いが、その材料、その建物、そしてミシンはどこから来るというのだろう。食糧事情は、封建の「家」のふところからさえ、急に過剰人口となったそれらの母子を追いはらおうと欲する。こういう実際だのに、政府が「婦人は家庭へかえれ」と馘首の先頭に婦人をおいていることの不条理は、あらゆる人の心魂に徹している。道徳的頽廃の根源も、生活不安定にある。
困難な条件が循環して果しないのに失望した一団の婦人たちが現れた。それほど国家が無力ならば、自分たち未亡人といわれる境遇に生きる者が、共通の苦痛と共通の必要にたってかたまり、社会に生活の道を拓いて行こうときめた健気な人々がある。
これらの婦人たちは、最後にたよりになるのは天地の間に自分しかない、という悲愴な決意をした人々である。あらゆる歴史の波瀾の間で人間が最後のよりどころはただ一人、自分があるだけだと観じた場合は実に多かった。それは気力をふるい立たせ、計画ある行動に立たせて窮地を打開させる力となって来た。
けれども、今日私たちが、自分一人が頼り、という雄々しい決心のその現実の内容をこまかくしらべたとき、生を守る智慧はどんなに深く大きくあらねばならないかということにおどろかれる。
つまり、私一人、というものの、社会における四方八方への繋りの問題である。体が丈夫で気丈で、人と人との調和もよく百人中の一人として、いい職業につけた人があったとする。その人は、自力、自分の実力ということをふたたびうれしく認めるであろう。しかし、真面目な婦人であるならば、その満足の期間は短くて、新しい社会的な立場はとりもなおさず、より厳粛な社会的覚醒への扉であったことを知ると思う。
民法が改正されようとしている。婦人にとって重大なかかわりをもつ結婚、離婚、親権、財産権などの条項が変更される。親、戸主の権威が不幸の原因とさえなっていた結婚というものは、当事者である男女の互の意志によってとりきめられ、互の協力によって維持されるべきものとなろうとしている。憲法で、男女同等の基本的人権が認められるようになった。それに準じて変更される民法の結婚の規定は、これまでの民法の矛盾をとりのぞいた。結婚しようとする当事者たちの意志できめられるというのは、さわやかにはればれした人生の門出を予約するように感じられる。
民法の上にさっそうたる朝風が吹きわたるとして、さて、私たちの毎日の実際で、当事者同士の意志は、そんな単純明朗であり得るだろうか。結婚は愛するものたちの「自由意志」に立つとして、その基本になるどっさりの社会条件は、誰の意志によって実現しているだろうか。住居のこと、収入と物価、夫婦二人のほかに家庭的な扶助の責任の問題。共稼ぎの必要、その必要には余り不備な今日の社会施設。もし健康に自信のない妻であるならば、共稼ぎと主婦の労苦を二重に負って病気したとき、その不安は誰が分担してくれるであろう。
すべての人民は働く権利がある、ということが男女差別の扱いなく行われ、すべての働いて生きる者は必要な社会保険によって最低保障は与えられるということが実現しなければ、結婚という一つの場合だけでさえ当事者の「自由な意志」というものは、皮肉な、揶揄めいた表現に終るのである。
夫婦の間の財産処理について、また子供らの後見者として妻、母の権限がひろくなろうとしている。孤独な母、妻である多くの婦人は、これによっていくらか家族の間における立場を改善されるであろう。しかし、財産とは、今日、何であるだろう。金とは? そして、土地とは? 民法が婦人の財産権を認めたとき、日本では、戦争によって財産の安定は極端にゆるがされている。金の力を信頼しているおろかな婦人は一人もいない。一部の人々が今日濫費しているのは、金の力を信じないからこそである。使えるうちに使っているからである。そして、ますます悪循環と偏在とを招いている。
世界の婦人たちが、世界の未亡人の問題を、単にそれら不幸な女性だけに直接な境遇の問題として扱っていない根拠がここにある。未亡人たちの身の上に集注してあらわれている被害、社会的矛盾、困難こそは、全くすべての働く女性、主婦、学生の日常の基本に一貫した受難であり、未来において絶対に克服されなければならない人間的な損傷と社会的矛盾である。その意味で、民主国では、この社会的な課題は、男女をこめて、明日のより条理そなわった社会建設に志す人々にとって、提出されている総括的な課題の一部分として扱われているのである。なぜなら、健康人の社会生活が安定であって、はじめて、病人の生活も保証される。順調な家庭生活の社会的基盤さえも失われている社会で、どうして不幸が根絶されるだろう。
民主的進展の速いヨーロッパ諸国で、この大戦後、婦人の政治的・社会的発言が強くなった必然は、ここにこそある。未亡人という文字は単調だが、それを実質づける多種多様な立場の孤立した母、妻たちが、現代の歴史のあらゆる角度から、人間らしい生活の再建の可能を確保しようと歩み出し発言していることは、日本の私たちとして、真剣にくみとるべき態度だと思う。現代の世界の未亡人の歴史的な意味は、これら老若幾千万の女性たちが、自身のはかりしれない涙と不幸との理由をしっかり人類の進歩の中に理解した、というところにある。第一次欧州大戦の後のように、婦人として平和を希望する、というような弱々しい心情から歩み出して、平和と生活の安定を確立させるためには、男子とともにすべての必要な行動に入って行く、と実行にうつった点にこそ、新しい意味がある。
今日の辛酸にやつれている母たる妻たちは、こういうものごとの考えかたはあまり遠大で、理想倒れだと思うかもしれない。それよりも、目前の一枚の冬着を、とはげしく求める感情もあるであろう。しかし、私たちは、よくよく思いひそめなければならないと思う。この二月の総選挙のとき、ある種の婦人たちは、参政権よりは、やすい薯《いも》の方がありがたい、と言葉に出していった。目の前の欲しさを強調した。そのために、すべての保守的な政党の立候補者たちは、食糧だけは引きうけると公約した。婦人立候補者たちは、あれほどくりかえして女のことは女にこそわかり思いやれるのだから、婦人の辛苦を解決するためには婦人代議士を、と演説した。そして、婦人たちの投票を集め、金もちと地主の集った政党を多数党にした。世界でおどろくほど一時にどっさり婦人代議士を選び出した。
彼女たちは、長い長い会期の間に、何を婦人のために解決しただろうか。女の苦労が集注している孤独な母たり妻たるひとの心からなる一票に、どんな現実をもって答えたであろうか。
深い原因からひきおこされた不幸は、それが大きければ大きいだけ、その深い根源に立ち入ってとりのぞかれなければならない。今日の世界は、社会の歴史を前進させ、不幸のより少い社会をつくるための悲痛にして名誉ある前衛大部隊として、諸民族の良人を失った妻たち、母たる妻たちの幾千万の発言を期待しているのである。[#地付き]〔一九四六年十二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
1980(昭和55)年5月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人公論」
1946(昭和21)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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