たかしら。杉子は歩きながら手頸の時計を見た。三時すこしまわっている。
今朝神戸の二番目の姉のところから味噌漬の牛肉が届いた。母の毬子は日づけを見ると急に忙しそうな顔になって、
「おや、きょうあたりがたべ頃よ。困ったのね。準次さんの大好物だから、どうせわけるなら漬けすぎにならないうちにたべさせたい」
鍵のてになった四畳半の濡縁に立ってこっちの葉の間を眺めていた杉子に、
「どうお、杉ちゃん。あなたちょっと行っておいて来てくれると、さぞおよろこびなんだがねえ」
と云った。
男二人の間に女が三人もあって、杉子のほかはみんなそれぞれに家庭をもっている。荻窪の糸子の家は、杉子の学校にも近いし、姉夫婦と気も合って、杉子はちょくちょく書物鞄のほかに、この節ではメリケン粉のつつみを出がけに持たされたりする。
今母からそう云われて、杉子は何となしすぐ返事しなかった。そしてひとりでに程よく波うっている髪にふちどられた大柄な瑞々《みずみず》しい顔だちの上で目を瞬くような表情をした。
「――午後からでいい?」
「結構さ」
「そんなら一時すぎたら。――ね」
くるりと踵でまわってスカートをふくらませたなり杉子は机の前へ引っこんだ。先週、一緒にやっている劇研究会のかえり、友雄は日曜の一時ごろ芸術座のカチャーロフの科白《せりふ》を吹込んだレコードを持って寄るかもしれないと云った。寄るかもしれないと不確に云われた言葉が、妙にはっきり杉子の心に刻まれていて、杉子は一時半までは家に居ようときめた。だって、それ以上待つわけがあるかしら?
自分できめた時刻になると、さあ、一時半! というような勢で立って支度して家を出たのであった。
ふっと速まりそうになる足どりを心附くような気持で杉子は帰って来た。玄関には母のふだん履きが置いてあるぎりだ。
「ただいまア」
杉子は、少しひっぱって甘えたいつもの声をかけながら、
「はい」
と手首にとおしたままの帛紗包を毬子の前へのばした。それが好物であるということも、お土産なことも知りぬいた様子で母は黙って帛紗づつみをぬきながら、
「準次さんいなすったかい?」
と、きいた。
「夕方はおかえりだって。――行ちゃんがね、このお煎餠には外米が入ってないんだよって云ってよ」
「この頃の子供はねえ。……麗子が、これジュンメンよって云うんだもの……種痘したのどうしたかしら、つ
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