ういう経験をするのも悪くないよ」
鴻造は、それが彼の社会的な重みも示すものとなっている、誇張した話しぶりに自分では気付かず、そんな表現をした。そのとき慎一は、
「僕はそういう向きじゃないようだ」
笑いながらだが、はっきり云った。
「そんな荒仕事にはとても向かない人間ですよ」
大柄ではあるが、ゆったり椅子に靠《もた》れてそう云っている慎一の眼差しのなかには、思慮のこまやかさと心の平らかさを語る艶《つや》が籠っていた。
鴻造はやや暫く黙って髭の両端のところを下から撫で上げるようにしながら、その慎一の眼を見ていた末、
「いや、案外それが当っているかもしれんね」と、あっさり納得した。
「木乃伊《ミイラ》とりが木乃伊になられちゃ困る。まあ、いずれ、またはまり場処もあろうさ」
現在慎一の持っている仕事、それで生活している勤めさきなどは、鴻造にとって仕事のうちに数えるものと思われてもいないような調子であった。あとになって、その話が鴻造ひとりの腹では九分九厘まで出来るものとして、軍関係の或る人に対しひきうけてあったと嫂からきかされて、峯子はいい気持がしなかった。若い自分たちの生活というものを、兄たちの辿っている人生の道から離れた別のものとして感じ直した。
「ふーん、そうだったのかい」
慎一もそのいきさつをきくと、青年らしく素朴な驚きを示し、同時に感服した。
「ああいう暮しを永年していると、僕らぐらいの人間は将棋《しょうぎ》の駒みたいに見えて来るんだろうね。きっと性格なんてものだって、使用価値からだけ見えているんだろうな」
二度目の今夜の話は、鴻造としたならば、荒仕事には向かないと云った慎一の言葉に沿うた提案というわけであったろう。その新興会社は満州に本社をおいて、北陸の或る都会にも支社をつくる計画があった。そこと東京との事業上の連絡、情報の仕事がある。重役直属で、それは慎一にどうかというのであった。慎一がそこにおさまれば、鴻造一個人としてばかりではない軍関係にとっての便宜でもあるらしい話ぶりであった。照子を寝かした峯子が嫂と奥へ行っている間にその話が出た。
「ところで、君、いくつになったんだっけ。もうそうなるかね。三十二三と云えばそろそろ真面目に将来の基礎をつくらなけりゃならん時代だね」
そこへ、すこし休んで髪なども結び、ぱっちりした顔つきになった峯子が果物の鉢をもって、
「何のお話?」
と出て来た。慎一は別に返事しないでいる。その様子と兄のそぶりを見くらべて、峯子はいかにもその家での末娘らしく、
「お兄さんたら!」
と父親のような鴻造を睨《にら》んだ。
「またどっかの鞄もちに売りこむ算段していらっしゃるんじゃないの? いやよ」
「ふん、それもまあいいさ」
峯子は気にするようにもう一遍、黙っている慎一の方へちょっと眼をやった。
前後の事情がそんな具合であったから、峯子には話の内容はよくわかっていない。自分が出現したことで、その話もうちきられた形になったが、今の慎一の物の云いぶりには、おのずと峯子の注意をよびさます何かがふくまれているのであった。
大通りから右へ折れて砂利道にかかると、ところどころに草の生え茂った空地などがあって、峯子は照子を抱いている慎一の肱へ下から手を添えて歩いて行った。下界に風が出ているわけでもないのに、いつ湧いたのか雲が時々月の面を掠め、雲が迅《はや》いので月の方が動いて行くように見える。彼等のゆく道も明るくなったり、翳《かげ》ったりして、その明暗を顔にうけながら、慎一は低く柔く口笛をふいた。一人の人が歩いているような二人の砂利を踏む跫音《あしおと》と静かな口笛の音とは寝しずまった深夜に響いた。
家への杉垣を曲る手前に、ひどく吠え立てる犬がいた。夜更にかえるとき慎一はいつもその犬が聴きおぼえている独特の調子の口笛を、峯子もききつけることを知りながらふきふき来るのであった。
二
東京の人口はどの位あるのだろう。大体が六百五十万ほどだそうだから、そのなかでサラリーマンと云われる部類は凡《およ》そ数十万を占めているにちがいない。そのなかで昨今の時勢につれて格別立身のつるをつかんだと云うのでもない連中。とび立つような夫々のきっかけをのがさずとらえて、いろんな動きかたをしたというのでもない連中。そういう人数も数にすればどっさりいるわけなのだが、その居据り組のサラリーマンはどんな気持で昨今の毎日を暮しているのだろう。
十二時から一時少し過ぎまで、慎一もコンクリート建の三階の室から外へ出て、或る時はひとりで、或る時は何人づれかで食事したり、そのあとをブラブラ歩いたりして、ある興味をもって周囲を見ているのであった。大阪の方はサラリーマンの暮しが東京より楽だという新聞の記事もあった。ところが
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