立てている良人の胸のあたりにその手が触れたとき、峯子は遠方に聴えるのではあるが極めて耳につく音響に注意をひかれた。その音は、遠い代々木練兵場の方からきこえて来た。シュルン、シュルン。いかにもつよい近代武器の鋼鉄バネが当ったらあやまたず命につきささる鋭い決然とした弾丸をはじき出すような音である。慎一の胸にかるく手をかけたままきき入っていた峯子は、その鋭い音と慎一の体の温さや鼓動がだんだん一本の線の上につながれて感じられて来た。きいていればいるほどシュルン、シュルンというその恐ろしい深夜の音は、自分たちのいのちにかかわりのあるものとしか思えなくなって来た。峯子はいつか上半身をのり出して、ねむりこんでいる慎一の胸を自分の胸でかばうような姿になった。そして、きき耳をたてた。音は小一時間もつづいたように思えた。そして、やんだ。
その頃東京という大都市の周辺では、夜じゅういろいろな音がした。眠らない人がいた。そして、夜間にする物音は、昼間では全くきくことのない音であった。夜中眠らずに何かやっている軍人たちも昼間は、誰がその眠らない人だったのか、見分けることは出来ないのであった。
朝になって、出窓にかけて新聞をひろげている慎一の姿を眺め、峯子は夜なかに、空気を截《き》って耳につたわって来た音をきいて、あれ程のせつない気がしたというのが、不思議に思えた。それに、何と云って話していいか分らないような心の経験でもある。
格別拘泥しているつもりでもなかったのに次の晩も峯子は同じようにして目が醒め、醒めて見るとそれは夜なかで、そしてその音がしているのであった。同じように峯子は切なかった。しかし、その感情が非常にせつないだけ、益々その時慎一をおこす気はおこらなくて、彼女は一心こめた思いで眠りのために芳しく重い良人の体を抱くのであった。
幾晩それがつづいたろう。或る晩、ふっと眼がさめて、習慣から峯子は敏感に枕から頭を離すようにして耳を聳《そばだ》てた。暗い夜がどこまでもこめているばかりで、その闇を劈《つんざ》く例の音はなかった。待ち心地できいていたが、その音は確にもうしなかった。そうすると、涙が出て来て、涙が出て来てたまらず、峯子は床の上に坐って、自分で自分をいぶかるように少し頭をかしげて涙に濡れていたが、やがて椿模様の寝間着の袂で涙をふくと、その唇を良人に近づけた。慎一は、少年ぽくむにゃむにゃという夢中の表情でこたえた。それも峯子にはおかしくて嬉しかった。峯子はひとりで笑った。
だが、その幾晩かの思いは峯子にいろいろのことを深く考えさせる動機となった。切なさは忘られず、そこから峯子は自分たちの夫婦としての生活をあらゆる面から遺憾ない日々のうちに生きようと一層本気になった。感覚的にも精神的にも峯子はこの期間に著しく成長して、容貌にも深い艶が加わったように見えた。
翻訳の仕事をはじめたのもこの頃からであった。いい加減におくっているのでなくても自分たちの生活がただ一日一日と消えてゆくだけでは、何となく峯子にとって物足りず、互の生活からもたらされてそこにはっきり現れて来るものを求める心が、翻訳となった。照子がおなかに出来たとき、生れて来る子供をひっくるめて自分たちの生きるべき時代の現実をつめてゆくと、子供のなかに天をも地をも畳みこんで、それを覗いているばかりのような女の暮しは、不安でたまらなかった。慎一が家にいられなくなった場合を考えるとなおさらその心持はつよめられた。峯子としては、良人も自分も子も、みんなしてめぐり遭わねばならない現代の運命のすべてを担ってやって行ける幅のある力を自身に求め、それを確かめておきたい心持がつよいのであった。
一区切りまで仕事をすると、階下へ降りて、鉄瓶にさわって見てから峯子は小膳立てをした。勤め先の会議から帰って来ると慎一はきまって、茶漬食えるかい、ときくのであった。
四
日曜日のひる近くで、近所の中学生が杉垣の外でキャッチボールをしている音がきこえる。慎一は照子を抱くというより腹と膝との上にのせているという恰好で、小庭においたカンバス椅子に出ていた。風情もない庭だが、夏のはじめ頃彼等が散歩に出た時掘って来た萩がついて、四つ目垣のところで紫の小粒な花を開きかけている。
「峯子、萩のわきに、何か穂を出しかけているものがあるの、知っているかい」
峯子は、庭からも見通しのきく小さな台所の流し元で、
「萩より傑作なくらいね、何なのかしら」
シャベルで根をおこしたとき、一緒に根をつけて来たらしい野草が、芒《すすき》に似た細葉をのばして、銀茶っぽい粒々だった穂を見せはじめているのであった。
「ああそこにあった手紙御覧になって?」
「知らないよ」
「『電電』の下にあるのに」
照子に何か云っている声がし
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