にゃむにゃという夢中の表情でこたえた。それも峯子にはおかしくて嬉しかった。峯子はひとりで笑った。
だが、その幾晩かの思いは峯子にいろいろのことを深く考えさせる動機となった。切なさは忘られず、そこから峯子は自分たちの夫婦としての生活をあらゆる面から遺憾ない日々のうちに生きようと一層本気になった。感覚的にも精神的にも峯子はこの期間に著しく成長して、容貌にも深い艶が加わったように見えた。
翻訳の仕事をはじめたのもこの頃からであった。いい加減におくっているのでなくても自分たちの生活がただ一日一日と消えてゆくだけでは、何となく峯子にとって物足りず、互の生活からもたらされてそこにはっきり現れて来るものを求める心が、翻訳となった。照子がおなかに出来たとき、生れて来る子供をひっくるめて自分たちの生きるべき時代の現実をつめてゆくと、子供のなかに天をも地をも畳みこんで、それを覗いているばかりのような女の暮しは、不安でたまらなかった。慎一が家にいられなくなった場合を考えるとなおさらその心持はつよめられた。峯子としては、良人も自分も子も、みんなしてめぐり遭わねばならない現代の運命のすべてを担ってやって行ける幅のある力を自身に求め、それを確かめておきたい心持がつよいのであった。
一区切りまで仕事をすると、階下へ降りて、鉄瓶にさわって見てから峯子は小膳立てをした。勤め先の会議から帰って来ると慎一はきまって、茶漬食えるかい、ときくのであった。
四
日曜日のひる近くで、近所の中学生が杉垣の外でキャッチボールをしている音がきこえる。慎一は照子を抱くというより腹と膝との上にのせているという恰好で、小庭においたカンバス椅子に出ていた。風情もない庭だが、夏のはじめ頃彼等が散歩に出た時掘って来た萩がついて、四つ目垣のところで紫の小粒な花を開きかけている。
「峯子、萩のわきに、何か穂を出しかけているものがあるの、知っているかい」
峯子は、庭からも見通しのきく小さな台所の流し元で、
「萩より傑作なくらいね、何なのかしら」
シャベルで根をおこしたとき、一緒に根をつけて来たらしい野草が、芒《すすき》に似た細葉をのばして、銀茶っぽい粒々だった穂を見せはじめているのであった。
「ああそこにあった手紙御覧になって?」
「知らないよ」
「『電電』の下にあるのに」
照子に何か云っている声がし
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