木の奴、よっぽど気がかりなんだな、くりかえし細君のことをたのんで行ったよ。月給もきっと細君の方へ送ってやって呉れって。細君てひとは孤児なんだって」
 鈴木の親はその結婚を認めていないので、身よりのない若い妻をたった一人ぼっちで東京において置けない気がするのであろう。往きに岡山とかの親戚へあずけて行くと云って、同じ汽車で立って行った。
「小っちゃな子供みたいに雀斑《そばかす》のある顔して、そのひとは、誰にもかれにもお辞儀ばっかりしていた」
 気持よく糊のついた浴衣《ゆかた》にきかえて、大きく脚をけるように動かして兵児帯《へこおび》を巻きつけ終ると、慎一は、
「どうだい、峯子」
 そこに立って着換えを手つだっていた峯子の肩に手をかけて、自分の方にその顔を向かせた。そして、半ばは冗談、半ばは本気という表情で、凝《じ》っと若々しい正直な妻の眼を見ながら、
「この俺だって死ぬかもしれないんだよ、大事にしてお呉れ」
と云った。すると、これをきいた峯子の顔がさあっと上気した。
「ああそんなこと」
 慎一の片っ方の手をつかまえて、我にもなく自分の胸へしっかりおしつけながら、
「とうに分っていることじゃないの、何故……」
 殆ど憤ったような二つの眼で慎一を見詰めたが、その眼にやがて涙が溢れて、
「そうね、あなたはまるで御存じないのね、ね、そうね」
と微笑みながら云った。その思い入った優しさに迸《ほとばし》るものがあって慎一を深く動かした。その時のことを後から思い出す毎に、慎一は、少くともあの時自分の気分には、妻よりも軽薄なものがあった。実際慎一はそのときまで、夜なか、そんなに度々、そして永い間、妻が目を醒していることがあったなどとは思いもかけていなかった。
 白い蚊帳《かや》を一杯に吊ると、二階の部屋はそのまま一つの半ば透きとおる籠のような感じになった。どこからも足場のない例の西側は開けたきりで、そこから蚊帳の裾へぼんやり樹のかげを落したなり、彼等は寝に就いた。一緒に溶け込むような深い眠りに入って、いくときか経つと、ふっと峯子は目を醒した。いきなり眠りのそこから真直に、はっきりと目が醒めた。あたりの夜気は冷えて白い蚊帳も露っぽく重くなって来ている。その裾の方に西へまわった月の影がさしている。殆どものをかけないで眠ってしまっている慎一が冷えはしまいかと、手をのばして、偶然健やかな寝息を
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