数言の補足
――七日附本欄伊藤整氏への答として――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)勁《つよ》さ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)単に機械的[#「機械的」に傍点]に、
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 八月七日の本紙に、伊藤整氏が同氏の作「幽鬼の町」に就て書いた私の月評に反駁した文章を発表された。編輯者は、私からそれに答える文を求めている。生活及文学に対する私の態度を盲目的な偏執又は非芸術的な機械性と云われている点や錯覚されている「社会善的潔癖さ」などという伊藤氏の理解について、第三者には自ずから明かである。その見方の誤りやそういう人間の見方そのものにあらわれている筆者の感情、偏執その他についてここでくどくどとふれる必要はないと思う。私はこの機会に月評の中で述べたいと思って枚数の足りなかったために書き洩した一つ二つのことについて書きたい。
 伊藤氏は、「幽鬼の町」を「小林多喜二的なものについて、芥川龍之介的なものについての現代の青年の批判と反応を、あの作品ほど明かに提出したものは近来ないと僕は信じている」と云い、くりかえし「芸術的ユーモア」という言葉で自身の居り場を語っていられる。
 日本はこの十年来、猛烈な動きを経験しつつある。インテリゲンチャ大衆の心持も大いに動いた。往年、その事大主義的な天質に従って学生運動の頭領となった一人の男が、同じ天質に従って今日は文化に対する統制の旗ふりとなっている現実である。小林多喜二的なものや芥川龍之介的なものが、発展的に批判されなければならないのは、もとより明かであるが、芸術の問題、インテリゲンツィアが今日の歴史をいかに生きぬくべきかという痛切な問題にふれて見た場合、どうしても、その批判なり反応なりが、どういうたちのものであるか、ということは考えないわけにゆかない。小説の普通の真面目な読者は、その感想にスタイルこそ整えていないが、常にここへ自然な読後感をもってゆくのである。
 伊藤氏が健全な人間的作家としての野望を抱く現代青年の心的事実の代弁者であるならば、小樽の街上を袂を翼に舞ったり下ったりする戯画化された小林の粗末な描写で、歴史的重要さが求めているだけの批判をなしているとみずから承認されはしないであろう。あの批判で万事O・Kであるならば、今日のインテリゲンツィアの苦しみや努力は
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