ず失われることのないその人の俤が小さく保たれている横の顔。こんな永年、経済の上では成り立ちようもない俸給で司書の仕事をしつづけて来ているのだから、この人の三十年の生計は平安であり、寧ろゆとりがあるものかもしれない。そうだとしても、三十年という時間は人生における何かである。そして、この人は三十年間一つの仕事にしたがいつづけ、高い卓のうしろのその場所から動かなかった。
以前に来たときは、三階の大廊下を右へ入ったところに婦人閲覧室があった。重い古新聞の綴じこみをかかえて、廊下へ出て来てみると、そっちへ行く大扉が閉められて、つき当りの一室が開いているだけである。新聞は「特別」で、先頃は特別閲覧室でみなければならなかった。広間の入口で、学生に、婦人閲覧室はどこでしょうときいたら、不思議そうに一寸黙っていて、ここです、と答えた。ここというのは、一般閲覧室である。入って行ってみると、男女区別なしに隣りあって読書したり、ノートしたり、居睡りしたりしている。戦争はその結果としていろいろの変化をもたらした。けれども、この役人くさい図書館が、やっと世間なみに、男女共通の閲覧室をもつ決心をしたということには一種のユーモアがある。
男子、女子の区別は、従来の日本の半官的な場所では愚劣なほど神経質であった。上野の図書館には、明治の前半期に樋口一葉がよく通った。一葉日記に、ここは屡々出て来る。その頃、おそらく一人か二人しかいなかったであろう女子の閲覧人は、どういうところで読んだり勉強したりしていたのであったろうか。私の記憶にあるはじめの婦人閲覧室は、現在、手洗場のある長廊下のつき当りの小さい光線の不十分な一室であった。そこだけは、カタログ室からも一般閲覧室からも遠くはなれていて、薄暗い灯にぼんやり照らされたその長廊下を受付けまで歩いて来る宵のくちの図書館の気分は、独特であった。暗くなって、その室の人数が一人一人減ってゆくと、少女の心は落付いていにくかった。背筋のひきしまるような気もちで、人気のない長廊下を来て柵のところの机に、電燈の光を肩から浴びた受付の人の姿を見るとき、人里に近づいた暖かみと安心とを覚え、階段にかかっている円形時計の面を見上げるのであった。その円形時計は、針が止ったまま、恰《あたか》もその壁の上についている。そして、こんど行ってみると、その長廊下へ出るところに、木箱がどっさりつみ重ねられていた。深い長めな四角い箱で、積んである外見に、そのなかにつめられている本の重量が感じられた。今年の夏、駿河台にある雑誌記念館へ行ったときも、その建物の中の使われていない事務室の床の上に、こういう木箱がずっしりとつみ上げられていた。日本から海を越えてアメリカへ送られる書籍だということであった。上野図書館の廊下につみあげられている木箱の形は、その印象を思いおこさせた。
一般閲覧室は広くて、明るかった。ただ西日がきつくさし込んだ。それで、勉強にはふさわしくない眩しい反射が頁の上に出来ているのにかまわず、若い専門学校の女生徒らしい人たちがあちらこちらにかなり多勢読んでいる。婦人閲覧室が別になっていたとき、その室には女ばかりの空気があって女学校の寄宿舎の勉強室のようであった。同時に、友達同士で来ている人たちの私語がかなりやかましいようなときもあった。男の人々と交って一般閲覧室にいる女のひとたちで、気になるような話をしているものはない。度々同じ閲覧室で出会い、ときには必要な本の索引のひきかたをきき合ったりすることから、婦人閲覧室の仲間が出来て、東京でたった一つ、それがきっかけとなっている興味ある婦人たちのグループがある。その人たちは、十年前には、それぞれ専門学校生徒だったり勤めをもっていたりした人々であった。若い女性の心にうごく願望に導かれて、それらの人はばらばらに図書館に来て、学校の課目や勤めの義務以外の勉強をしているうちに、段々互に顔なじみになり、話しがはじまり、御弁当のとき一緒に食堂へ行くようなことから、一つの集りが出来た。互に励しあい勉強しあって、夜が更けてからの気味わるい上野の山内をみんでかたまって帰って行くような扶け合いから、これらの人々は若い女の人たちの集りとしては珍しく、時によっては経済上の援助もしあった。その時分、一番早く一本だちになって開業した女医さんである一人の仲間が、そういう場合、よくみんなのために尽力した。
十年が経ってゆくうちに、或るひとは結婚し、或る人は専門の職業で確立し、或るひとは更にこれまでの職業から、個性のより大きく生かされる仕事に進もうと計画している。上野という地域や、図書館や、わたしにも親しい思い出のあるその珍しい集りが、久しぶりで桜木町の仲間の一人の家でもたれた。集りの仲間は、戦争でちりぢりになっていた。それが今度め
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