ァシズムをやがて内容として与えるのに便利な下ごしらえであった。
 一九四五年の秋から昨今、また人間性の解放ということが云われ、ルネッサンスがそれにつれてひき出されている。こんどの人間性解放ということは、ポツダム宣言受諾後の日本として、封建性への反逆その否定、ブルジョア民主主義の完成という問題とからんで出されている。
 十三世紀からはじまったルネッサンスは、なるほどヨーロッパにおける近代の暁であった。しかし、日本の今日が、当時のイタリーやフランスのような経済事情に立っているだろうか。政治事情に立っているだろうか。小さいおくれた日本にも四世紀を経たヨーロッパの歴史の波が、おのれの歴史的現実として存在している。後進資本主義国であり、天然資源の貧寒な条件におかれているだけ、一方に世界の帝国主義的な段階の特質をつよくあらわして来た。そうでなかったら、日本が明治以来、軍国主義でかたまる必要がどこにあったろう。日本の民主化の課題の複雑さは、われわれの生活に封建的なものがどっさりこびりついていながら、同時的に資本主義の悪徳にわずらわされているという現実の状態にある。日本の民主主義の道には、この二重の投影がある。したがって、日本での人間性の解放を具体的に考えるとき、それはこの二重の影を二重に、同時的にうちひらいてゆく運動の理解に立たなければならない。理屈の上でそうなのではなくて、事実が、それを求めている。
 この日本の民主主義の複雑な性格のために人間革命ということの理解も、固定して扱われがちであり、そのために実際の歴史的動力としての溌溂さを失っている。ブルジョア民主主義を完成してから――そこで個人個人の人間革命を完成させてから、その次の社会主義的な民主主義に――より社会的要因の多い個人への発展に向うと考える考えかたがはびこっている。
 これが固着的に考えられれば、どんなに現実からはなれたものとなるかは、毎朝の新聞一枚よめば誰のめにも明白である。日本の一九四七年にブルジョア民主主義の完成を求めるというひとは、どこにその実際の経済的地盤――次第に興隆に向いつつある若い資本主義を見出そうというのだろう。日本の全人民が収入の七割以上を税金にとられ、終戦費がそこから出されてもゆく、そのどこにワルト・ホイットマンの時代の社会があるというのだろう。
 歴史の圧縮された二重の性格を貫いて、人民生活の
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