年間を中国に暮したC女史にとって、故郷の天気は却って体に合わなくなっている。C女史はものうくベッドにもたれていた。軽快な足どりでそこへ入って来た淑貞はいつものように、C女史をやさしく劬《いた》わり、笑いながら「母さん御覧なさい、これ、あたし達が前にピクニックに行った時の写真よ、天錫さんが私の知らないうちにとったのがあるのよ」
 C女史は、ものうくその写真をとりあげた。八枚の最後の一枚を手にとりあげたとき、C女史は突然目を見はった。
 若葉でいっぱいに飾られたゴムの大樹、一面の芝原、うつむいて御馳走のふたをとろうとしていた淑貞が、にわかに頭を擡げた瞬間にシャッターがきられている。淑貞の「顔一杯の嬌笑、それは驚きと喜びと情熱の哄笑です。生々とした眸、むき出された雪白の歯、こうした笑いをC女史は十年この方絶えて見たことがありませんでした」戦慄が、C女史の体を貫いて走った。名状しがたい感激がわき上った。「驚きではない、怒りでもない、悲しみでもない。彼女はただしっかりとこの一枚のうつしえを抱きしめました」
 再びその部屋に入って来た淑貞の咲きみちた花のような姿は、C女史に「一団の春意屋中に在りて流転す」とでもいう感銘を与える。ふと目をあげて向いの化粧鏡に映った自分の姿、その髪は乱れ、毛糸のシャツを着て蒼ざめた顔、眼はいくらか血走って、眼尻に多い皺。淑貞は又その写真を手にとって無邪気に云った。「母さん、この人たちこんなに活溌でかわいいのね。わたし達そう云ったのよ。みんなで一緒に大学へ入学しましょうって、きっと……」C女史は答えない。C女史はそっと下唇をかみ、涙ぐんだ眼を、窓の外に向けた。そして心配そうに「母さん何を考えていらっしゃるの?」ときく淑貞の手を軽くとって云った。「淑貞や、私は中国へ帰ろうかと思っているんだよ」
 冰心女士は、読み終った人々の心の中に同情と哀愁とを湛えさせたまま、そっと自分はものかげへ退いてしまう。ここには、何と東と西とがまざまざと在り、しかも同時に、その東と西とをひとくるみにする人間らしさが流れているだろう。字が読めない中国の女も、必ずそれは巧みであるとされている中華刺繍の一片は、絹の糸のよりかたから、糸目の並べかた、色の配合、すっかりそれはフランスの刺繍と違う。アメリカのドローン・ワアクとも違っている。違うことにある美しさ、美しさ故に世界の心にしみ透
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