るものなのである。
食慾を失って、極度に神経的になった正隆は、殆ど大病人のように窶《やつ》れ果てた。一日中床に就いたきり、起きて動こうとするだけの、弾力を失った正隆は、大きな羽根枕に埋めた頭だけを僅に動かして、傍の信子夫人を顧る。そして、彼は、沈痛な言調で、日に幾度となく、同じ質問を繰り返した。凝《じっ》と坐った彫像のような夫人の小さい手を自分の掌に置きながら、正隆は、先ず、
「信子、お前は、ほんとに俺を愛していてくれるのか」
と、口を切り出すのである。
最初、正隆の質問が唇を離れた時、信子夫人は、微かながら、ハッとした表情を緊張させて、蒼白い、寧ろ土気色ともいうべき良人の顔を、痛々しく眺めた。そして、落付いた声に力を籠めて、
「あなた、御心配はお止め遊ばせ」
といった。
「有難う、信子。俺は心配はしないよ。然し――信子、ほんとにお前は俺が嫌になりゃしないか、こんな不仕合わせな男と、一緒にいるのは、厭じゃあないか?」
「あなたは――、どうしてそんなことをおっしゃいますの、大丈夫でございますわそんなこと」
「大丈夫かえ、ほんとに、それじゃあね、信子、俺はもう一つ、たった一つ、大切なことをお前に訊きたいんだが、ありのまま、何でも返事しておくれ、ね信子」
「何でございますの?――けれども、あなたは、ほんとにいけませんわ、あまりお頭をお使いになると、また気分が悪くおなりになるのだから、後でよろしいことなら、後ほどに遊ばせよ、ね」
「後じゃあいけないから、今訊くのだ――ね、信子、お前は――変だと思っちゃあ、いけないよ。ただ、俺の気になって仕様がないから、参考のために、聞くのだからね、――お前は、誰かに頼まれて、俺のところへ来たのじゃあないのか?」
正隆は、そう云いながら、ひどく当惑し、混乱した表情を浮べて、眼をしばたたいた。その表情を、じっと眼の下に見ながら、信子夫人の唇には、例の不思議な、彼に「けれども」と思わせずには置かないような微笑を湛え始めた。
「誰かに頼まれて? おかしなことをおっしゃいますのね、それは、あなたのお母様や、私の母やなんかが、来てくれ、行け、とおっしゃったから来たのじゃございませんの、ほんとにおかしな方」
「いやね、信子、俺の云うのは、お母さん達のことじゃあない、誰か、そうさな、誰か、親類でも何でもない人に、たのまれは、しなかったかというのだよ」
「あなたは――」
信子夫人は、滑らかな頬にさっと血の色を上せた。
「妙なことばかりおっしゃるのね、私は存じませんわそんなこと」
「怒らないでくれよ、信子、願うから――」
そろそろと逃げて行きそうになる夫人の指先を、確りと握りながら、身を引寄せるようにして、正隆は哀願した。
「憤らないでくれ、然し、ほんとに、お前は知らないの、誰からも頼まれないの? 信子、お願いだから、いっておくれ」
「存じません。――あなたは何を疑っていらっしゃるの、はっきりとおっしゃればよろしいのに」
「疑いやしない、――が、疑っているんだね、疑っちゃ悪いかえ、信子、俺はお前が可愛いのだよ。大切なのだよ、信子、だから俺は――お前に行かれるのが堪らない」
「どこへも行きは致しませんことよ、さあ、そんなことはやめにしてお休み遊ばせ」
夜着をかけようとする夫人の両手を掴んで、正隆は起き上った。
「いい、構わない、大丈夫だ。それでね、信子、俺が何を知りたがっているんだか分るだろう? 俺は、お前が大切なのだ、お前がいなければ生きてもいられない、だから、お前は疑わないでも、お前の後にいる者を疑わずにはいられなくなるじゃあないか」
「何を、だからお疑いになるの?」
「解らないのか、誰かに頼まれやしないかと、さっきから云っているじゃあないか」
「誰のことをおっしゃるのそれは? うちの母?」
「それが分らないのだ。誰だか俺には分らない。だから訊くのじゃないか、信子、どうぞ、正直に云っておくれ、お前は、俺を愛してくれるか、一生一緒にいてくれるかえ、ほんとに、隠さず云っておくれ信子、俺が苦しんでいるのは、お前に解っているだろう」
「それは分っておりますわ、だけれど、あなたは――一体何をそんなに苦しがっていらっしゃるのよ」
「そら! もう解っていない。やはり分っちゃいない。だから、お前は俺の思うような返事をしてくれないのだ。信子、ほんとにお前は――」
手を取られたまま、凝と伏目になった信子夫人の眉の間からは、「男らしくもない!」という憤りが、火花になって散りそうに見えた。正隆の得体の知れない疑いや焦躁に掻き乱された彼女の感情は、彼の顫える熱情を、裏返したような冷静、冷淡に冴え渡って、他人に向うより鋭い批判を、乱された良人の面上に注ぎかける。嫌厭が湧かずにはいられない。その嫌厭は、彼が、自分の良人であるという意識
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