によって、一層強められ、醜さを増して来るのである。
「愛するというのなら」
 夫人の眉はひとりでにピリピリと動いた。
「何故男らしく、安んじて愛して行かないのだ。愛して疑う、愛するから疑う? 何を疑うのだ。根もない、自分でも何だか分らないような疑いで、ひとを攻める……」
 攻める。――信子は胸のむかつくような衝動を感じずにはいられなかった。或る感情の齟齬《そご》した場合、お互の理解が方向を誤った時、結婚した妻と良人とほか知り得ない距離の懸隔の感が、浅間しいギャップとなって、彼女の目前に口を開いた。男性というものに、英雄的な幻想を持つ信子夫人にとって、女性である自分の前に※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36、74−3]《もだ》え、哀訴し、泥のような疑惑の中に転げ廻る正隆は、あまりに惨めに見える。あまりに弱い。あまりに頼りない。その頼りない、廃残者めいた男を一生の良人として、自分の生涯を支配されるのかと思うと、女性の大望《アンビション》を多分に持つ信子夫人には堪え得ない焦躁であった。
 その内面の争闘を、本能的な直覚で、或る程度まで魂に感じる正隆は、一層、持つ不安と疑とを煽られずにはいられなかった。信子夫人が黙れば黙るほど、落着けば落着くほど、正隆は多弁に、燃え顫えて、掴み得ない何物かを掴もうとして、後ずさる夫人の心を追うのである。
 けれども、この魂と魂との争闘は、決して長くは続かなかった。暫く時が経つと、始めの間は、相当な真実さで、良人の質問に応答していた信子夫人は、すっかり、その緊張を失って、丁度、精神病者に対するような不真面目が、彼女の態度に現れ始めたのである。もう、信子夫人は、一言でいえば、正隆に取り合わなかった。もとは、頬を赤めて憤りもした。時によれば議論がましい口を利いた夫人は、もうぴったりとそれ等を封じ込んでしまった。そして、気の違った者が、
「馬鹿やい、馬鹿! お前は馬鹿だぞ!」
と叫びながら荒れ狂うのに対して、周囲の者は、半ば憫笑を漂《うか》べながら、
「ああ馬鹿だよ、馬鹿だから、音なしくしておいで」
となだめるような調子が、正隆に対する総ての素振りの中に含まれ始めた。彼自身は、気づかないうちに、正隆は、彼の唯一人の頼りである信子夫人に先ず狂人扱いをされ始めたのである。
 明に、正隆の言動は常軌を逸していただろう。けれども、彼はまだ気違いになってはいなかった。彼は求めているのだ。ひたすらに、信子夫人の真実な愛の証言を、求めているのだ。彼は、それさえ確りと与えられれば、何の焦躁も狂乱もなく、生活に戻ることが出来るだろうことを知っていたのである。が、然し、それは決して与えられなかった。望み、求める第一のものが与えられないのみならず、それ等は刻一刻と彼の周囲から遠のいて行くようにさえ見えた。
「愛すと云ってくれ。信子。どうぞ。ただ一言、愛す、とだけ云っておくれ、それで俺は救われる」
 亢奮した正隆は、泣きながらかき口説いて、白い信子夫人の手を引絞るだろう。
「どうぞ信子、ほんとのことを云ってくれ、俺を愛す! と云っておくれ、信じておくれ、それで、俺は助かるんじゃあないか、信子!」
 瞬間、夫人の瞳は、彼の言葉に刺戟されて、微かな輝きを持つ。然し、次の瞬間、諦めを含んだ憫笑と、もっと性的な圧苦しい嫌厭が齎す冷笑とを、鮮やかに赤い唇に浮べる夫人は、やがて、彼の感激とは、まるで宇宙の異うような冷淡さで、
「もう分りました。さあ、気を鎮めてお休み遊ばせ」
という返答ほか与えないのである。
 正隆が、たとい一万度、同様の哀願を繰返しても、夫人の表情は変らなかっただろう。ただ、一度は一度と、半ば義務的な夫人の返事が、その僅かな潤いすら失って来るだけなのである。
 こうなると、もう正隆は、ほんとに気違いになりそうになって来た。
 信子が、彼の生活から離れはしまいかという疑問は、今、もう空漠たる抽象的な疑問としては置けなくなった。彼女が、所謂|躾《しつけ》のよさから、或る程度まで、それを沈黙のうちに殺しているとはいえ、正隆は、彼女の瞳が、何の愛着も自分に対して持っていないことを認めずにはいられなかったのである。
 それは、信子は親切である。落度なく彼の身の囲りの世話はしてくれる。けれども、それは、最も大切な、或る物を欠いている。彼女の親切は、注意は、結局、それを要される一つの位置《ポジション》に置かれた者が、己の義務を完全に遂行することに満足を感じて、しているのだとほか思われなかった。死んでも、癒してみせるぞ! という熱情の、断片さえも彼女の胸にはないように見えた。愛もなく、執着もなく……。信子は、ただ、或る機会、その機会は、彼女を自分から解放する一つの機会――を待っているのだと、正隆は思わずにはいられなくなったのである。

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