ひどく乗気になった母未亡人は、これを二度と得難い首途《かどで》として、正隆を説得した。
まだ漸く二十四の彼に比較して、明《あきらか》に優遇である地位は、正隆にとって、勿論不愉快な招聘《しょうへい》ではない。周囲の無条件な賛同を見ると、それでも厭だというべき理由を持たない正隆は、ようよう僅かな小径を現し始めた、彼の道を眺めて微笑した。何者に対してとも分らない、軽い侮蔑と、驕《おご》ったうなずきとを以て、正隆は、新に提出された位置を承諾したのである。
彼のこの首途を、彼女の思い得る最大級の形容で、神聖な、祝すべきものとした佐々未亡人は、まるで初陣の若武者を送るような感激で、送別の宴を開いた。
親類の者は皆、九段の御祖母様の御大相《ごたいそう》が始った、と云いながら、集って、笑って、彼を祝して、帰って行った。が、その宴を、決してそんな軽々しいものと思ってはいなかった未亡人は、人が散って静かになると一緒に、微酔を帯びた正隆を、古い、仏壇の金具ばかりが、魂の眼のように光る仏間に連れ込んだ。そして、周囲の襖をぴったりと閉《た》て切ると、未亡人は、正隆が何年にも知らなかった、厳格な、威圧的な調子で、
「正隆」
と、息子の名を呼んだのである。
正隆は、思わず顔を上げて、母未亡人を見た。彼の、その予測し難いものに出逢った困惑で、何時になくたじろいだような表情を、きっかりと押えるように、未亡人は、
「正隆、お前も、これから漸く人になる、今日は大切な日です。だから私も、心ばかりの御餞別《おはなむけ》をして上げたいと思うのだが、お前は聞く気がおありかえ」
「お母さん――」
「はい。――私が是非云って置きたいと思うのはね、ほかでもないが、お前が世間知らずだから、他人《ひと》との懸引をやり損っては大変だということなのですよ」
こんな前提を置いてから、未亡人は、小一時間も、彼女の信ずる処世術ともいうべきもの、それは唯一の方法で、最も完全なものだと思われる処世術に就て、正隆を諭した。
愛されて育ったものが、総てそうであるように、他人の悪意を看破するに遅い彼は、若年でありながらよい位置に就き得た後援者の力、その力が齎す、嫉妬、反感、羨望等という人間の弱点を、巧く切り抜けなければならないということ、また、他人が利己的に他人を陥れようとして使う奸策の種々な種類と、対抗策。それ等を、未亡人は、正隆が思わず眼を瞠《みは》ったほど、辛辣な、冷酷な、執念深い音調で、些細な点までも説明して聞かせたのである。
この華奢な、切下げの老人の胸に、どうしてこれほどの激しさが包まれているかと思うほど、亢奮した未亡人の言葉によれば、世の中は、要するに敵同士の寄合だというようにさえ思われる。彼が幼年の頃から、よく繰返されたように、生れてから、死ぬまで、信頼すべきものは、親が在るばかりだ。どんな外観の親切も決して、内心の真実は示しているものではない。用心をし、用心をおしよ、正隆、用心をおしよ。
母未亡人の記憶に、今もなお鮮やかに遺されている亡父が、永年枢要な地方官として経て来た生活の中には、どんな迫害が伏せられていたか、どんな、難関が、つき纏ったか。それ等は、悉く、限りある個人の力などでは予防することも何も出来ないほど、多量であり、複雑であったという、母未亡人の説明を事実とすれば、どれほど大胆な人間をも、なお脅かすに充分なだけ、悪の微妙な筋書《プロット》を持っていた。
気の勝った未亡人は、自制を失った興奮に燃え立ちながら、激しい、容赦のない口調で、正隆の心を、ビシビシと鞭うった。彼女は、持ち前の癖を出して、正隆がどれほど不安な眼差しをしようが、憐みを乞うような溜息を吐こうが頓着なく、彼女の暗い、凄い解剖をしつづけて行ったのである。
「だから、お前、昔から、人を見たら泥棒と思えとさえ云っているじゃあないか。世の中へ出て御覧、ほんとに油断は大敵ですよ。お亡くなりになったお父様なんかも、まるで蜘蛛の巣見たような奸策許りには、どんなに御難儀なすったか分ったものじゃない。ね、正隆、私はお前さんの行末を案じるばかりに、こんな心配までしているのですよ。お分りだろう、だから、ね、何でも気を許さずに、怕《こわ》い人になっていなければいけませんよ。人間というものは妙なもんで、一度人に馬鹿にされたとなると、もう決して、二度と頭の上りっこがないのだからね、正隆――」
そう云いながら、今まで確りしていた未亡人の声は、俄に顫《ふるえ》を帯びた。
「ほんとにね。どうぞ仕合わせになれますように。私だって、もうそういつまでも、お前の世話はして上げられないのだからね、しっかりしておくれ、私がいなくならないうちに、せめて足場だけでも拵えておくれ、たのみますよ」
急に、仏壇の方へ振向いた未亡人は、最後の一句
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