失さえも与える徴兵からも、完全に解放されて、明るい将来の中に、誰でもが持つ、社会的野心を漂わせながら、当時は、素晴らしいものに思われていた、学士という肩書を、担おうとしたのである。
 少年時代から、自分の容貌と、才能とに自信を持っている上に、亡くなった父親や、伯父ほど年の違う長兄の占めている地位等を、我知らず目算の裡に置いている正隆は、彼の前途に、一面からいえば、自惚《うぬぼれ》以上の光明を持っていた。普通の青年が期待するより以上の名誉なり、栄達なりが、つい手近な処に、彼を迎えて、腕を拡げているような心持がしていたのである。が、然し、その名誉なり、栄達なりという、輝やいた彼方と、今、四角い制帽を戴いた自分との間は、ぼんやりと霧の中に消え去っている。道程は、どんな風なものだか、それさえも思考の材料とはなって来ない。正隆にとって、当時多くの青年が叫んだような、意志の強固な勤勉などということは、恐るべき蕪雑さを以て現われた。
 蒼白い、濃い髪の毛の所有者である正隆は、繊《ほそ》い腕を形よく組合わせたまま、貴族的な冷笑と物懶《ものう》さとを合わせて、真正面から、世間へぶつかって行こうとする朋友達を、眺めやったのである。
 それ故、正隆は、間近に横わる卒業後の生活方針等に就いては、何も纏《まとま》った計画は持っていなかった。ただ、自分だけの才能があれば、誰かそれを発見して、また無い者に尊敬してくれるだろう、尊敬するに違いないという、希望とも臆測とも付かないものが、漠然と、然し、濃厚に、彼の細い胸を満していたのである。亡父の遺産で、当面の生活のために努力しないで済む正隆は、自分の才を使って貰うために、どこへ頭などを下げるものか、と思っていた。立派な学識を持ちながら、泣きついて懇願する恥辱を、忍ぼうとする必要は、求めても見出せなかった。生活というものが、不思議に固定して、動くべき軌道の上を、何の驚異もなく動いて行くのを傍観し馴れている正隆は、自分の才能が発揮されたからといって、それで、今日まで流れて来た、大河のような自分の生活が、どうなるものでもあるまい、という心持もしていた。
 転って行くトラックの上で、いくら、踊って見ても舞って見ても、結局は小車の行く処へ、連れて行かれるばかりではないか。
 正隆は、この気分に、絶望を混ぜてはいなかった。然し、委せた、萎《しな》びた無為である。従って、彼の持つ希望の中には、焔がない。燃え上る何物をも含んでいない。
 正隆は、「青年」を失っていたのである。
 母未亡人の偏愛が醸した、性的の自堕落は、殆ど彼の少年時代から、魂を無責任な追従や阿諛《あゆ》で硬化して来た。
 彼の感じる生活というものは、相当な歓楽と、相当な名誉との可能を持った、何かはっきりしない、或る程度までは退屈な時の連続であった。
 身も魂も投げ込んで、白熱した生命の威力に洗われなかった正隆は、自負を持ちながら、今の生活に何等かの改造を齎《もたら》すべきものとして、自分の才能を考えることは出来なかった。生れながら与えられた、際立った語学の才と、文才は、それ等の有ることは事実でも、「今日」とは何の連絡がない。言葉を換えていえば、正隆は、自分の持つ才能を自覚するから、その発揮を本能的に希望するので、その才能の方向が暗示する名誉が、自ずと産む生活上の影響などは、問題の中には入っていなかった。
 正隆の場合では、かような心持の持つ、二様の力の、ただ消極のみが、感化を与えていた。仕事の純粋さに対する希望ではない。生活そのものの弛緩が、彼の魂の四隅を、確《しっ》かりと釘づけにしていたのである。

        二

 何事かと思わせるような歓迎に抱き取られて、帰京してからも、正隆は、何を思い煩うこともないらしく見えた。
 母未亡人に金を貰って外泊をしたり、時には涼風に、長めな髪を嬲《なぶ》らせながら、招魂社の池の辺で、亀の子の甲羅を眺めたりしながら、正隆は悠然と、生活の戸口に彷徨していたのである。
 けれども、母未亡人は、正隆ほど安閑とはしていなかった。
 瞳よりも可愛い、唇よりもいとおしい正隆を、その美貌に於て誇る未亡人は、また、彼の栄達に就て、焦慮せずにはいられない。生活のために息子を働かせるのではない、という自信を持つ彼女は、殆ど正隆と同量の自尊心を以て、彼の地位を期待した。そして、三月ほど経つと、長兄の紹介で、正隆は、或る官立農学校の教授となることになった。
 その農学校というのは、東京から数百|哩《マイル》南のK県に在って、校長と長兄とが、かねて親しい友人であった関係から、彼は全く好意で、比較的高級な教授の空席を占めることになったのである。
 東京を離れるということは、少くとも、彼をとり繞む快楽の減少という点で、正隆を躊躇させた。けれども、
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