不思議な、自分で判断の下せないものになって来るのを感づいた正隆は、或る程度まで行くと、もうぴったりと鑿穿の足を止めてしまった。
 我にも、人にも、明答の出来ない記憶の残滓を、苦笑と共に、そっと生活の淀みに埋めて、正隆は、翌年の春早く、「お信様」と呼ばれる婦人と結婚したのである。
 信子の母親は、佐々未亡人とは幼友達の間柄であった。
 およしさんおよしさんといって遊んだ美しい人が、大蔵省の地位の高い官吏と結婚して生れた末娘の信子は、三四人ある女同胞の中で、最も秀れた美貌を持っていた。それのみならず、その当時としては最高の教育を授けられて、鋭く利く目端しを、おとなしく古風な礼儀作法に包んだ彼女の趣が、先ず佐々未亡人の趣味を満足させたのである。
 正隆の脳病には、何より生活の変更が第一だと心づいて、可愛い子供の病気に使う適薬を探すような熱中さで、相当の婦人を物色した未亡人は、選択を正隆に委せる心持は持っていなかった。
 嫁という者を、奇妙な、良人と姑との共有者のような感じを漠然と心の奥に抱いている彼女は、女の子を育てたことのない好奇心に手伝われて、自分の趣味を第一に、標準とした。それに、可愛い正隆は、自分の眼鏡にかなった者を、拒絶する筈はないという自信で、かなりまで独断で事を進めた未亡人は、いざという最後の一点まで来て、事実を正隆に洩したのである。
 女性に対する神秘さを失って、結婚などということを、彼の年齢に比較すると、想像以上の現実さで考えていた正隆は、美しくもない婦人を貰って、義務を負わされる生活は、堪らないと思っていた。
 それで、母未亡人が、最初にそろそろと口を切り出した時にも、彼は例の通り鼻であしらって、どうでも好いという表情をしながら、煙草をふかしていた。
 けれども、自信のあるらしい母未亡人は、何か楽しい詭計を持つ者のように微笑みながら、
「正隆や、お前ほんとにどうでも好いとお云いなのかえ。好い縁を取逃して、後で口惜しがったって、私の知ったことじゃありませんよ」
と云いながら、わざと紙に包んだ写真を膝の上でひけらかした。それに釣られて、思わず、
「一寸お見せなさい」
と云って手を延した正隆は、紙を開いて中を見ると、一目で、これは! という顔をせずにはいられなかった。
 それほど、中の婦人は美しかった。その美しさも、数年間、彼が胸に抱いていた、その型通りの美である。上品でありながら、飽くまでも、瀟洒でなければならないという、彼の条件を知って生れて来た者ででもあるかのように、その立姿は冴え渡って、すっきりとしている。しかもそれが、高槻信と自署されているのを見て、正隆は思わず、何物かに胸を衝かれたような心持がした。
 ただ、美くしい、ただ、素晴しい婦人として、彼方に眺めていた彼の観賞眼は、この三つの文字で俄に、その視線の距離を縮めてしまった。焦点が、グッと動いて心の真正面に移って来たのである。
 子供の時分、よく母未亡人に連れられて遊びに行った、あの築山のある、泉水に緋鯉が泳いでいた家に、こんな娘が住んでいるのかと思うと、正隆は一種不可解な、謎を感じずにはいられなかったのである。
 もう、二十にもなっているのなら、自分とは、たった五つ六つの違いである。
 まだ漸く七つか八つだった自分が、
「おばちゃん、今日は」
と云いながら、紫|天鵞絨《ビロード》の大黒帽子の頭を可愛く下げたその時分に、多分は、ろくに歩けもしない赤坊の信子が、母親の膝にでも抱かれて自分を見ていたのかと思うと、正隆の胸には、ついぞ湧いたことのない、一種の懐しさが後から後からと湧き上って来た。その懐しさも、曾て彼が一度ならず経験した種類のものとはどこか異ったところがある。
 もっとあどけない。もっと、色が、ほんのりとした桃色である。がそれにも拘らず、その桃色は、未来と過去とを貫いて、同じ桃色をほんのりと漂わせている、いたのだ、これからもいるだろうというような心持のするものである。
 それが、愛と呼ぶべきものなのか、或は、所謂縁というべきものなのか、正隆に区別はつけられなかった。
 その時分の教育で、愛の本質などということに就てかれこれいうより、先ず美貌を望む正隆は、よし彼女が、千里彼方の見知らぬ国の者であろうと、その結婚を拒みはしなかったであろう。彼が、満されない希望に終りそうな不安を持たぬでもなかった、その美が与えられるということに加えて、親と親との関係は、他人とはいいながら、幾何かの接近を両者の間に持っている。正隆は、どこにも非の打ちどころがないと思った。非の打ちどころがないばかりか、もう二度とは恵まれない幸福であるという気さえする。結婚などというものは――と、小鼻に皺を寄せていた正隆は、平常の冷淡さを、臆面もなく顛倒させてしまった。
 彼は、良人として自
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