彼の不幸な魂にとって、またと得られない休安であった。絶えず朝と晩とを徹して彼を虐げるあらゆる不安も、焦躁も、冷笑も、その時だけは、一面の混沌の裡に溶け込んでいたのである。けれども、頭が目覚めて、魔術的な細胞が呼吸をし始めると、正隆の心には、幾日かの休養で、更に精力を増進したようにさえ見える、尖耳《とがりみみ》の小悪魔が、恐るべき勢で活動し始めた。それは、全く、悪魔の啓示といっても誇張ではないほど、正隆の頭は敏活に、蒼白い光の尾を引きながら、暗黒の裡を、飛翔した。
もう学校へも出ず、散歩さえ止めた彼は、まるで、大発見の手掛りを得でもした、科学者のような根気で、暗示《ヒント》から暗示へと、手繰り寄り手繰り寄り、もうクライマックスへ来たらしく見える、「悪計」の発掘に取りかかったのである。ほんとに、飢え渇いて、ガツガツと汗を掻きながら進行した正隆は、終に或る、系統的な、企図ともいうべきものの、正体を掴み得た。
その分解に従うと、最初、彼がこのK県に寄来された迄には、何の計画も、悪意も籠ってはいなかったのだ。
それが、此方へ来て、稍々暫く経ってから、或る人の手が徐ろに動き出した。それは、副島氏である。
一口にいってしまえば、副島氏は自分を邪魔にしていたのだ。早く追い払いたかったのだ。けれども、相当に学識もあり、美貌でもあり、また生れのよい、彼とは特殊な関係で繋がった自分を、そう理由にならない口実で、追放することは出来ない。そこで、陰から先ず学生を唆《そそのか》して自分を虐待させながら、一方、彼自身は、飽くまでも親切さを装って、食事に招待したのだ。
招待して置いて、散々楽しませ、悦ばせた揚句、あんな赤恥を晒させることは、而も、美くしい夫人まで使って恥を掻かせることは、勿論、直接法に怒らせるよりは、効果が多いのは知れきっているではないか。
「南瓜頭《ペンプキンヘッド》!」
そうして置いて、垣内を、あの垣内を何時の間にか手なずけて置いて、丁度見計らった頃を狙って、園田との芝居をさせたに違いないと、正隆は決定したのである。
平常は、あんなに温順で、教室などでは、地蜂のような少年に混って、まるでいるかいないか分らないように恐縮している園田までが、一緒になって自分に懸って来るかと思うと、正隆は、血の煮えるような憤りを感じる。こんな計画を立て、追い出て行く自分を人々は待っているのだ。
正隆は、みみず腫れに膨れ上った手の甲を撫でながら、あらゆる人々に向って、苦艾《にがよもぎ》のような嘲笑を投げようとした。が、突然高い頭の小さい少年の像《イメージ》が心に浮び上ると一緒に、正隆は、病気のような心細さを感じ始めた。
何か急に、ポカンと胸のしんが抜けて、がらん洞になった心の洞穴を、寒い、冷い霧雨を含んだ風が、スースー、スースーと風音を立てながら、吹き抜けて行くような淋しさなのである。
その筒抜ける風に煽られながら、正隆は、自分の心も体も、めちゃめちゃになって行くような気分になり始めた。周囲の者達が可哀そうなのではない。勿論。神かけて、あんな奴! けれども、心が悲しいのだ。何かひどく惨めな、可哀そうな気分が突上げて来て、眼に涙さえ浮ませる。寂しい、気の毒な――誰なのだろう?
自分の涙に度を失った鼠のように、正隆はきょろきょろと四辺を見廻した。目の届く限りには、人影さえも動いていなかった。
相変らず、小じんまりと、婦人室のように飾られた部屋の中に、塵《ごみ》のような自分一人が、ほんとの一人ぽっちで、ポツネンと据っているのに気が付くと、正隆は、可哀そうなのは、自分がこうやって、涙までこぼして劬《いた》わってやっているのは、結局彼自身なのだ、というところへ行着いたのである。
「そうだ、俺なのだ。俺自身が、我ながら可哀そうになって来たのだ」
俺が可哀そうだと思い出すと、正隆は、止途のない感傷に陥った。
自分が、来たその時まで持っていた希望は、どこへ行ったのか。
あれほど明るく、輝やいて見えた、前途が、こんな暗闇に塗り消されようと、誰が思って、こんな遠い田舎まで来るだろう。若い、向上心に満ち、総ての点に完備した自分が、これほどの悪計に、悩まされなければならないということ。矢張り、母未亡人が、かねがね話した通り、自分の境遇と、天分を羨望するあまりに、こんな計画を立てたのに違いないのだ。
それ以外の原因は、何があるだろう。ただそれのみなのだ。それに、違いないのである。
然し、だんだんこうやって進んで来た正隆は、ここまで来ると、或る得意に似た感情が、そろそろと悲しみを消し始めたのに心付いた。
皆は、ああやって自分を酷《いじ》めたと思っているのだろう。然し、決してそうではない。もう一歩進めて考えて見ると、却って、彼等が、自分の力に苦しまされてい
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