垣内が読んでいるのは、教科書なのだ。
 それも、現に今朝、彼が、噛み煙草でも、吐きすてるような苦々しさで教えて来た、予科の教科書ではないか。
 子供らしい!
 なにしに、あんな子供だましみたいな文句を、声高々と読んでいるのだろう、自慢なのか? 肩幅の広い、土地の者の垣内の姿を思い浮べると、その滑稽な対照が、思わず彼を笑わせる。正隆は、そろそろと忍び足で近寄った。
 不意を襲って、正直な垣内を、真赤に恐縮させたい悪戯心が、フイと彼の心に萌したのである。
 然し、正隆の忍び足は、五歩と続かなかった。まるで、彼が動き出したのを合図のようにして、読むのを止めた垣内の声を受けて、今度は、更に意外なもう一つの声が質問をし始めた。
 声は、紛う方もない園田ではないか、園田! 今朝、正隆が教えた組の中でも、おとなしい学生として、非難のしようもなく思われていた、その園田が、今、ここにいる――。
 正隆は、一寸判断がつきかねた。この学生と垣内とを、どう結び付くべきなのか、けれども、少年の口から洩れる質問を、全身の注意で聞いて見ると、正隆は、火の玉のようになった。
 少年は、今朝、授業時間に、正隆に向って質ねたと同じ箇処を、また繰返して、垣内に質問していたのである。
 それを知ると、もう正隆の頭は血迷った。自分が、どんな返答を与えたか、ということなどは、思おうともしないで拳を握った。
 何という奴だ!
 自分が、彼の教師でありながら、その自分を出し抜いて、こっそり陰へ廻って、こんな、青二才の垣内なんかに、さも、あんな教師は役に立たぬといったらしく阿諛《おべっか》を使う、誰に教った? 犬め!
 よろけるように、いきなり樹蔭から姿を現わした正隆は、もう一度、「間牒《いぬ》め!」と叫びながら、獣のような素早さで、園田の頭を目がけて突掛った。
 ポックリと、黒くて丸い少年の頭が、澄んだ中空に、何気なく浮上っているのさえ、正隆には、わざと空惚けて、やい! と云っているように見える。ジロリと憎々しく、その小さい頭に眼をくれた彼は、必死になって止めに入った垣内の力で、引分けられるまで少年の頭にしがみついた。野獣のような貪婪さで目を眩まされた正隆は、強い垣内の臂力に抱き竦められて、膏汗《あぶらあせ》を流しながら、身を震わせた。
 極度な亢奮で、僅かほかない精力を、最後の一溜まで失った彼は、顫えが納まると一緒に、激しい、神経質の嘔気を催して来た。
 病気になった野良犬のように、舌を吐いて、苦しい空嘔《からえずき》をする正隆は、変に引吊った眼でそっぽを見据えながら、ただ生理的の苦痛以外の何物をも感じ得ないほど、疲憊してしまった。両手を、大きな、温い垣内の掌の中に握られながら、横坐りに足を投げ出した正隆は、妙な悪寒が、体中を嘗め廻すような不気味さを感じた。

 それから、何秒経ったのか、何分経ったのか、或はまた幾日経過したのか。
 俄に、はっきりと眼を見開いた正隆が、四辺《あたり》を眺め廻した時には、いつの間にか家に帰って、見馴れた調度に、とり繞れながら、床に就いていた。
 世界が夜になっている。微細な、潤った夜の胞子の間を縫って、卵色の燈火が瞬いている。
 何時の晩なのだろう。
 正隆は丁度昼寝をし過した子供のような、間誤付を感じた。
 何時の晩なのだろう、今日の晩なのか、それとも、もう明日の晩になったのだろうか、……水が飲みたい、喉が乾いた。
 最後の一句を、漸く声に出して云うと、夜着の裾の方で、誰かがむずむずと動く気勢《けはい》がした、その瞬間、正隆は永年の習慣から、ふとそれが、切下げ髪の母未亡人であるような気がした。
「水……」
 黙ってコップを差出した人の顔を見ると、それはここにいるとは思わなかった垣内である。正隆は怪訝《けげん》な顔をして眼瞬きをした。
「おい……」
「どうしたね、気分は少しは好くなったか?」
「きぶんは、すこしは、よくなったか……?」
 正隆は、どこか寝ぼけたようで、はっきりしない頭を、強いて掻き起すようにしながら、垣内の言葉をそのまま、書取《デクテイション》した。
「気分が悪い? それじゃあ俺は病気なのだろうか、何時から? どこが悪い? 使用がないな、よほど悪いのかな、垣内……家の婆さんはどうしたんだ。陰気だ、これじゃあいけない……どうかしよう、然し……それにしても……」
 グヮン、グヮンと激しい耳鳴りがし始めて、正隆はまた、ぼんやりとして、何か不仕合わせで頼りない気がする薄暗闇の中へ、ずるずると滑り込んで行った。

 満《まる》二日経って、正隆はようよう平常の頭脳を恢復した。恢復したとはいいながら、その頭脳の存在は、正隆にとって悩ましいものである。床に就て、夜も昼もただぼんやりと、取止めのない影のような気分の錯綜のみを感じているうちは、
前へ 次へ
全35ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング