った。彼女の美と、捧げられた奉仕を、彼は、いざとなって何の悲歎もなく振り捨て得るとは、どうしても思われない。たとい、彼女が、敵の見えざる掌から渡された者でも、若し彼女が自身でそれを自覚もせず、また利用されさえしないならば、自分は、決して彼女を見返すことは出来ない、と思わずにはいられない。どこに彼女ほど、清澄な美を持って生れた女性がいるだろう。
 どこに、彼女ほど高い気品を持った女性がいるだろう。
 彼女の従順と、謙譲と。醜い女でも持ち得る、そのために人に尊敬さえ払わせる美徳を、比類のない輝くような美に並有している女性、その信子、その婦人が、尚も自分を裏切るだろうという想像は、正隆にとって、恐るべき苛責である。
 自分の歯で自分の魂を食う苦しみなのである。
 彼は、一日一日と日を経る毎に、その疑惑に堪え得なくなって来た。無言の中に、信子を監視する冷淡に、じっと息を殺してはいられなくなって来たのである。正隆は、ただ一言、はっきりと天地に懸けて誓って欲しかった。どうぞ、焔のような激しさで、愛す! といって欲しかった。そうさえすれば、自分は、せめて信子だけを信じ、守り、縋りついて、生活を続けて行かれるのだ、という切迫した願望が、血行と共に、彼の身内を循環し始めたのである。
 この、愛す! という誓言は、今の場合、正隆にとっては、単純な愛情の証言ではなかった。信子夫人の、天地に懸けた愛で、彼自身、彼の全部を、肯定して欲しかったのだ。彼が、不幸な運命を負うて生れた者であることも、彼が、よい天分を持っていることも、それを発揚することは、不可能なことも、総てを、ありのまま、よし! といって貰いたかったのである。
 正隆は、どうぞ、
「解っています、皆解っています、私の愛する者よ、さあ確りしましょう、私は、そのままのあなたを愛しているのですよ」
といいながら、腕を引立てて、起して欲しかったのである。
 憤りの狂暴な力は、彼を振い立たせるだろう。けれども、正隆は、その孤独な、緊張の中に、たった一人で立っていることは、堪えられなかった。
 怒濤のような力が、自然にじわじわと鎮ると、その後を襲う寂寥、恐ろしい迄の静謐《せいひつ》に堪えかねて、正隆は感傷的にならずにはいられない。この反動的な感傷は、今、正隆の疑惑、その所産である苦悶が大きければ大きいだけ、深ければ深いほど、共に強度を増して来
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