うか?
十二
恐ろしい、それはあまりに恐ろしすぎることだ。正隆は、計らずも自分の生命の偶像である信子夫人に向けられた疑問を抱いて、三晩一睡もしなかった。
若し彼女が、自分の愛に応答しない、信頼を裏切る悪魔の使いだったら、どうだろう。総ては、もうそれっきりである。もう、それっきり! その先にあるものは、云えない。云えない無が、虚無が、闇が拡って、彼を嚇やかすのである。
彼は、何かただ一事で、馬鹿な貴様だな! と笑って、その疑問を殺してしまいたかった。けれども、彼は、そうは出来なかった。
結婚の当時から、何かの折に触れては感じた、あの「けれども」という愁訴。幸福な間、その幸福の持つ、華やかな色彩で、何時の間にか隠されていた、その一種の、明かな物足りなさは、絵の具が落剥《らくはく》すると共に、何か意味ありげな穢点となって、正隆の心の前に滲みついたのである。
ここに至って、正隆の内面的な問題は、一廻転したように見えた。今まで、ただ漠然と衆に向って注がれ、放たれていた疑惑は、今あらゆる力を集注して、信子をその対象として掴んだのである。もう、正隆にとって、自分が、役所をどうして罷めたかということや、これから先、どうやって行こうなどということなどは問題ではなくなった。ただ、信子である。信子が、真実に自分を愛し、自分を信じ、その愛と信とのために、自分に送られた者であるか否かということが、唯一の疑問である。彼の生涯の希望は、ただこの一点で決せられるように思われて来たのである。
若し、信子が、ほんとに自分を扶け、自分と禍福を偕《とも》にする決心でいるのなら、生活に、まだ何かの光明がある。四方、八方から虐げられても、彼は、夫人の美と、美の持つ力とによって、何か生きて行く途を得られることを信じていた。若し彼女が、悪霊の傀儡《かいらい》でないならば、敵は、まだどこかに隙を与えているということを思う可能があると、思ったのである。それから緊張し始めた正隆の注意は、殆ど間牒のように信子夫人を踉《つ》け廻した。彼の傍にいる時も、いない時も、外との交際も、あらゆる隅々を圧えて、彼は、信子の正体を見窮めようとし始めたのである。
けれども、それは彼女を愛す正隆には堪え得ない仕事であった。
正隆は、信子を失うことを平静に想像することは出来ない。涙なしに考えることは出来なか
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