福さえしたのである。
この物質的に、彼があまり安穏であったということは、一面に正隆の身を自由に解放していると共に、他の一面では、彼をただ瞬間の激情に己を委せる弱者にしていた。
若し、正隆が、役所から離れるということが、何等かの点で生活の不安を齎すものであったら、これほど、彼は無反省で、或る環境から自分を引離すことは出来ないだろう。出来なければ、従って、何等かの思考が費される。そこで彼は、自分の苦痛、その苦痛を齎した原因、等に就て、何か掴むことが出来たかも知れない。けれども、役所で受ける俸給などというものは、生活の大道に何の差も起さない境遇にある正隆は、単に役所を雑作なく罷《や》めたということと共に、同様の無省察で、自分の疑惑を肯定したことに、一層の不幸を持っているのである。
彼の追憶は、それが追憶であるという事実に於て、多分の想像が加えられるのを免れない。現実の苦痛は、その結果のみを握って、原因を手の届かない彼方に置いているという点に於て、また、多くの推測と仮想とを含まずにはいられない。総てのことがただ抽象化されて、その抽象を左右する傾向が、ただ、正隆の気質にのみ動かされることは、結果として、正隆の求め得る結論以外のものは出て来よう筈がない。
自分の正直な、真実な仕事が、劣等な疑と不公平な判断によって、現に、拒絶されたという事実は、翻って、妄想かも知れないと思いかけていた過去の、K県での経験までを、疑い得ない事実として、正隆を首肯させた。そうなると、彼の最初の踏み出しから、今日まで、正隆は、ただ不正の、悪策の的となっていたようなものなのではあるまいか。
悪計を運用する台として、或る処へ運び出されたようなものである。その運び出す餌として、自分は、僅かな、然し力強い幸福を覗せられた。幸福を厭う人間が、この世に独りでもいるだろうか? 皆は幸福を求める。その皆の求めるものを自分が求めて、釣り出されたことは、自分としては自然である。が、相手にとって、自然であることを、係蹄に使うのは、或る警戒を与える策略よりも、数等卑劣である。正隆は、彼にとって、全くの不幸であった、人々の無責任によって、止途もなく疑の底に滑り込んだのである。
彼は、先ずK県に於て、その発端を現した不吉を呪うべき運命が、着々とその確実な計画を遂行して、今日、第二段落の成功を納めたのだとほか思われなか
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