定な動揺を感じずにはいられない。その動揺の、落付こうとする方向を、いかなる形式に於ても暗示するヒントが、やがて、その「意外」の種類を決定するものなのではないだろうか。
この場合では、正隆に対する徳義上の疑問が、落付きを与える一つの重しとなったのである。即ち、外国語には通じている正隆が、不完全な日本文の弱点を補うために、彼の長兄である正則の助力を仰いで置きながら、それをそのまま知らん顔で提出したのではあるまいか、というのである。
勿論、それはありそうなことで、ないとはいえなかった。正則は、素人でこそあれ、漢詩をよく作ることで、一部には著名であった。その兄を持つ正隆が、若し彼を強請《せび》って書かせたとすれば、この位の文章位、何の苦もなく出来《でか》されてしまう筈なのである。
従って、ありそうなこととして、この疑問が、皆の胸に湧いたことは、理由のないことではなかっただろう、然し、漠然としているにも拘らず、人間の心に不思議な昏迷を与えるこの感じは、危険なものである。人は、なかなかその妙な暗示から解放されることが出来ない。正隆が、二人掛りで遣って置いて、そっと口を拭っているのではあるまいかという、最初は極く淡い、互に云うのさえ憚られるようなものであった一種のアンティシペーションは、討議、評議と時を経て行くうちに、何時ともなく皆の心の中で、濃度を増して、終には動かすべからざる疑問となってしまったのである。
疑い出して見ると、事は紛糾するばかりである。どこにも、決定を与えるべき証拠がない。ああだろう、こうだろうと云っているうちに、人は不安にならずにはいられない。そういう結論の与えられない疑の中を這い廻っている自分自身が、一時《いっとき》も堪らないほど、厭に、不安になって来る。そして、結局は、どうでも好い、早く何等かに片をつけてしまったら好いではないかという心持に、なって来るのである。
こういう場合、与えられる決定が、それを受ける者を考の中心に置いていないことは、明かである。自分の不安を追うための決定である。自分に与える回答である。従って、最も平明な、最も単純なものを「よし」とすることは免れ得ないことなのである。
正隆の仕事を挾んで向い合った時にも、皆が知らずに、皆がこんな心持になっていた。そして、掴みどころのない、いざこざの末、
「そんな疑いがあるのなら、一層、面倒
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