えて見給え。落付いて考えて見れば自分で解ることなのだ、私はもう御免を蒙る――」
と云いきったきり、もう再び正隆の方へ振向きもしなかった。最後の言葉を、課長は、確信のある者の壮重と、威圧とで断言したのである。
 この一句が、正隆の心じゅうを、グンと小突き上げた。
 君のためだろう、とは何事だ!
 正隆は、思わず激しい音を立てて、座から立ち上った。が目の下に、半ば禿げた課長の頭を見ると、彼は、俄に淋しい、生理的に痛苦を感じるような気分に掴れた。
 憎みとも、恥辱とも、口惜しさとも、名状し難い感情が、盲目《めくら》のように突掛って来る。グリグリが出来たような、彼の目の前には、今頃はもう有頂天の大喜びで、得意そうに仲間中を触れ廻って、自分の成功を祝われているだろう真田の姿が、幻のように浮び上って来た。
 その想像は、彼に眩暈《めまい》を起させる。けれども、思わずにはいられない。
 少し膝が曲った細いズボンを、小刻みにチョコチョコと歩きながら、真中から分けた髪を押え押え、へらへらと笑う真田。
 たださえ軽薄な真田が、面白半分の煽てに乗って、天地唯独りの俊才を気取りながら、どうだと鼻を蠢《うご》めかせる様子を考えると、想っただけで、正隆はほんとに、嘔きたいような気分になって来た。
 あんなに確実そうに見え、見えたばかりか、同僚の多くも、自分に当然の結果として、選抜を予期していたのに、あの真田が、自分に代るということは、一体何事だろう。
 平常から、おべんちゃらな男として、数にも上せなかった彼に、自分の座を横領されたことは、正隆にとって、決して単純な失望には止まらない。
 今までは、創世後八日目の宇宙のように、晴々と、爽やかに日光の降り灌《そそ》いでいた地球は、俄に、正隆のこの眼の前で頓死してしまったのである。

        十

 それは実際、総てのために悲しむべき、一つの誤謬であった。
 正隆が、外国語に、秀でた天分を持っているということをのみ強調して、考えの中に置いていた人々は、彼が翻訳した文章を見て、不審を起した。
 彼が、外国語にこそ精通しておれ、邦文、しかも当時行われていた面倒な漢文的な文章を、これほど立派に駆使することは意外だというのである。
 人間が、意外な感に強く打たれたとき、決して平常の冷静を保っているものではない。少くとも、その瞬間だけでも、何等かの不安
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