を貫いて失墜させた力を、人間の群が、彼に与えた他力だと思う場合もある。そういう時、彼は嫉妬で、自分は苦しめられるのだと思う。明かに「人」が彼の敵手なのである。然し、彼の思考が進めば進むほど、それは具体的な人間の形体を脱して来るのが常である。そして抽象的な、運命という言葉を帯びるようになるのである。何故ならば、生れようともせず、産んでくれとも願わなかった自分を、地上に送り出した力は、何か、という処まで、彼は逆上るのである。打たれ、挫かれ、そして失望させられるものでありながら、何故、希望を持たずにはいられないのか、ということである。
 そのままで行けば、また同じ悲惨を反覆するに過ぎないのに、何故人間は忘却するのか、何故過去を忘れて、未来の係蹄に掛ろうとするのか、ということである。
 正隆は、これ等を思うと、或る超人間的な偉力を感じずにはいられない。重い、暗い、そしてこの上なく敏捷な間牒が身の廻りをついて離れない。
 若しその間牒に、内心を覗かれたら? damn ! 正隆は、せわしく周囲を見廻しながら、肩を揺って、大きな心の閂を下すのである。
 実行として現れた或る意向が、外界との折衝を持った場合ならば正隆は、その行為に対して、責任を負わなければならなかっただろう。然し、それが、たといいかなる種類のものであっても、ただ心でのみ思われている場合、彼は、総ての多くの人々がそうである通り、無責任であった。
 従って、尚子夫人に対する彼の妄想は、それが妄想に終止する、という黙許を得て、却って勢を増すようにさえ見えた。或る時には、殆ど堪え難くさえ思われる誘惑に、正隆は恐怖と陶酔とに顫えながら、歯を喰いしばって、対抗しようとしなければならないのである。けれども、空想が益々熱を加え、色彩を濃くして来るにつれて、正隆は不安を感じずにはいられなくなって来た。何時か、無我な瞬間に緊張は破れて、打ち負かされることを恐れはじめたのである。彼は怕いのだ。総ての予想される結果の前に戦いた。が、然し、尚子夫人の持つ魅力、それも女性が共有するアフェクテーションではない、天性が持つ無心な魅力を、どうすることも出来ない。そこで正隆は、美くしく健やかに見える彼女の心の奥から、何か醜陋なものを発き出して、その腐敗物で、輝く像を塗り潰そうと思い始めた。
 自ら構えた幻滅に、強いても落付き、或る程度までの侮蔑を感じ
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