信子夫人が、一旦彼の抱擁の中から逃れたら、それはもう永劫の遁走であることを、正隆は知っていた。彼女の身を庇護するために拡げられる腕は、この地上に決して、自分のだけではないだろう。一面からいえば、彼の許から去った信子を、今、この刹那に於て期待しているものがあるかも知れないではないか。
 正隆は、時間的に或る破滅の切迫を直覚した。若し、彼がそのまま、見えない、掴めない、魂と魂とで引組んでいたならば、その間に、彼女の、自分の運命を決する瞬間が流れ寄って来そうに思われて来たのである。
 口は、いくらでも嘘を吐《つ》ける。どこにあるのかそれも分らない魂、心、はその口によって出口を見出すほかない。そうすれば、唇を越えた瞬刻、魂の本然はいかほどまでに偽られているか、信子の心自身でない自分には、決して解る筈がないのではあるまいか。それでは駄目だ。それでは仕方がない。
 正隆は、心でもない、言葉でもない何物かによって、信子の証言を得なければいられなくなって来た。
 心はどうだか、俺に知る力がない、けれども、信子! どうぞ事実に於て、変らない俺の妻であることだけは、証《あか》してくれろ、信子! 正隆は泣きながらそう叫んで、信子夫人の美しい肉体に掴み掛ったのである。
 それが、正隆の力の及ぼし得る最後であった。と同時に、信子夫人の忍び得る、最後のものであった。
 狂気したような粗暴さで、獣のように掴掛る良人の顔を、それが「良人」であるが故に、生れてこれほどの憤りがあるとは知らなかったほどの憤りに燃え猛りながら、信子夫人は、爪を研いで掴み掛った。
 血の出るような、憎みである。怨みである。恥辱である。
「ひどい! 何をなさる! 男らしくもないことをしてひとを苛《いじ》めて置きながら、それでもまだ、まだ、自分のものにして置こうとする、誰が! 誰が! 放して下さい、放して!」
 右の眼の上に、昏倒するような疼痛を感じると一緒に、正隆は、思わず信子夫人の乱れた髪を引掴んだまま、
「御免、信子、御免」
と云いながら、床の上に横倒しに倒れ落ちた。

        十三

 泥のような数日――。信子夫人は、もう決して、正隆の傍に姿を見せなかった。
 正隆は、疼《うず》く眼を冷して、凝と床にいるほかなかった。泥のような数日――。
 彼の、あれほど光彩に満ち充ちた結婚生活は、かようにして終りを告げてし
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