ってはいなかった。彼は求めているのだ。ひたすらに、信子夫人の真実な愛の証言を、求めているのだ。彼は、それさえ確りと与えられれば、何の焦躁も狂乱もなく、生活に戻ることが出来るだろうことを知っていたのである。が、然し、それは決して与えられなかった。望み、求める第一のものが与えられないのみならず、それ等は刻一刻と彼の周囲から遠のいて行くようにさえ見えた。
「愛すと云ってくれ。信子。どうぞ。ただ一言、愛す、とだけ云っておくれ、それで俺は救われる」
 亢奮した正隆は、泣きながらかき口説いて、白い信子夫人の手を引絞るだろう。
「どうぞ信子、ほんとのことを云ってくれ、俺を愛す! と云っておくれ、信じておくれ、それで、俺は助かるんじゃあないか、信子!」
 瞬間、夫人の瞳は、彼の言葉に刺戟されて、微かな輝きを持つ。然し、次の瞬間、諦めを含んだ憫笑と、もっと性的な圧苦しい嫌厭が齎す冷笑とを、鮮やかに赤い唇に浮べる夫人は、やがて、彼の感激とは、まるで宇宙の異うような冷淡さで、
「もう分りました。さあ、気を鎮めてお休み遊ばせ」
という返答ほか与えないのである。
 正隆が、たとい一万度、同様の哀願を繰返しても、夫人の表情は変らなかっただろう。ただ、一度は一度と、半ば義務的な夫人の返事が、その僅かな潤いすら失って来るだけなのである。
 こうなると、もう正隆は、ほんとに気違いになりそうになって来た。
 信子が、彼の生活から離れはしまいかという疑問は、今、もう空漠たる抽象的な疑問としては置けなくなった。彼女が、所謂|躾《しつけ》のよさから、或る程度まで、それを沈黙のうちに殺しているとはいえ、正隆は、彼女の瞳が、何の愛着も自分に対して持っていないことを認めずにはいられなかったのである。
 それは、信子は親切である。落度なく彼の身の囲りの世話はしてくれる。けれども、それは、最も大切な、或る物を欠いている。彼女の親切は、注意は、結局、それを要される一つの位置《ポジション》に置かれた者が、己の義務を完全に遂行することに満足を感じて、しているのだとほか思われなかった。死んでも、癒してみせるぞ! という熱情の、断片さえも彼女の胸にはないように見えた。愛もなく、執着もなく……。信子は、ただ、或る機会、その機会は、彼女を自分から解放する一つの機会――を待っているのだと、正隆は思わずにはいられなくなったのである。

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