秋風
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)余計《よけい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|放《ほう》って置いて

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(例)[#ここから1字下げ]
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 秋風が冷や冷やと身にしみる。
 手の先の変につめたいのを気にしながら書斎に座り込んで何にも手につかない様な、それで居て何かしなければ気のすまない様な気持で居る。
 七月からこっち、体の工合が良くない続きなので、余計《よけい》寒がりに、「かんしゃく持」になった。
 茶っぽく青い樫の梢から見える、高あく澄んだ青空をながめると、変なほど雲がない。
 夏中《なつじゅう》見あきるほど見せつけられた彼の白雲は、まあどこへ行ったやらと思う。
 いかにも気持が良い空の色だ。
 はっきりした日差しに苔《こけ》の上に木の影が踊《おど》って私の手でもチラッと見える鼻柱《はなばしら》でも我ながらじいっと見つめるほどうす赤い、奇麗《きれい》な色に輝いて居る。
 こんな良い空を勝手に仰ぎながら広い「野《はら》っぱ」を歩いて居る人が有ろうと思うと、斯うして居る自分が情《なさけ》なくなって来る。そうした人達が羨《うらや》ましい様な、ねたましい様な気がする。
 それかと云って、厚着《あつぎ》をして不形恰《ぶかっこう》に着ぶくれた胴《どう》の上に青い小さな顔が乗《の》って居る此の変《へん》な様子で人の集まる処へ出掛《でか》ける気もしない。
「なり」振りにかまわないとは云うもののやっぱり「女」に違いないとつくづく思われる。
 こないだっから仕掛《しか》けて居たものが「つまずい」て仕舞ったのでその事を思うと眉《まゆ》が一人手に寄《よ》って気がイライラして来る。
 出掛ける気にもならず、仕たい事は手につかず、気は揉《も》める。
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「どうしようかなあ。
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 馬鹿らしい独言《ひとりごと》を云って机の上に散《ち》らばった原稿紙《かみ》や古《ふる》ペンをながめて、誰か人が来て今の此の私の気持を仕末《しまつ》をつけて呉れたらよかろうと思う。
 未だお昼前だのに来る人の有ろう筈《はず》もなしと思うと昨日《きのう》大森の家へ行って仕舞ったK子が居て呉れたらと云う気持が一杯《いっぱい》になる。
 いつ呼んでも来て呉れる心安《こころやす》い、明けっぱなしで居られる友達の有難味《ありがたみ》を、離《はな》れるとしみじみと感《かん》じる。
 彼の人が来れば仕事の有る時は、一人|放《ほう》って置いて仕事をし、暇な時は寄っかかりっこをしながら他愛《たあい》もない事を云って一日位座り込《こ》んで居る。
 あきれば、
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「又来ます、気が向いたら。
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と云って一人でさっさと帰って行く。
 私は、私より二寸位背の高い彼の人が、私の貸《か》した本を腕《うで》一杯に抱えて、はじけそうな、銀杏返《いちょうがえ》しを見せて振り向きもしないで、町風《まちふう》に内輪《うちわ》ながら早足《はやあし》に歩いて行く後姿なんかを思いながらフイと番地を聞いて置かなかった、自分の「うかつ」さをもう取り返しのつかない事でもした様に大業に思った。
 裏通りの彼の人の叔父の家へ行けばすぐわかる事だけれ共、人をやるほどの事でもなしと思って、「おととい」出したS子への手紙の返事を待つ気持になる。
 飛石の様に、ぽつりぽつりと散って居る今日の気持は自分でも変に思う位、落つけない。
 女中に、
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 私の処へ手紙が来てないかい。
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ときく。書生にも同じ事を聞く。
 十二時すぎに、待ち兼ねて居たものが来た。
 葉書の走り書きで、今日の午後に来ると云ってよこしたんで急に書斎でも飾って見る気になる。
 机の引出しから私だけの「つやぶきん」を出して本棚や机をふいて、食堂から花を持って来たり、鼠に食われる恐ろしさに仕舞って置く人形や「とんだりはねたり」を並べたりする。
 妙にそわそわして胸がどきどきする。
 母に笑われる。でも仕方がない。
 花を折りに庭へ出て書斎の前の、低い小さな「□□[#「□□」に「(二字分空白)」の注記]石」から足を踏みはずしてころぶ。
 下らない事をしたものだと思うけれ共、急《せ》いたり、あんまり喜んだりするときっとこんな事を仕出来すのが私の癖だ。
 足が痛い痛いと云いながら私が家中□[#「□」に「(一字分空白)」の注記]走して居るのを皆が笑って誰も取り合わない。
 すっかり飾って仕舞うと三時近い。
 顔が熱くなって唇がブルブルして居る。
 S子の顔を見るまでは落つけないのだから――
 今ベルがなるか今ベルがなるかと聞耳
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