上林からの手紙
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)樅《もみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)菊飾のしるし[#「しるし」に傍点]をつけた
−−
ふつか小雨が降って、晴れあがったら、今日は山々の眺めから風の音まで、いかにもさやかな秋という工合になった。
山の茶屋の二階からずうっと見晴すと、遠い山襞が珍しくはっきり見え、千曲川の上流に架っているコンクリートの橋が白く光っている上を自動車が走っているのまで、小さく瞰下《みおろ》せる。
まだ苅り入れのはじまらない段々畑で実っている稲の重い黄色、杉山の深い青さ。青苔がところどころについている山径では、山うるしの葉が鮮やかな朱黄色に紅葉して、樅《もみ》の若々しい葉の色を一層清々と見せている。
こういう山径のつき当りに、広業寺という寺があって、永平寺のわかれなのだそうだが、尼さんがあずかって暮している。山懐の萩の生えた赫土を切りわったようなところに、一つの温泉がある、そこには何だか難かしい隷書の額がかかっていたので、或る日、裏道づたいに偶然そこへ出て来た私たちが好奇心をうごかされてガラス窓をあけてみた。内部は三和土《たたき》のありふれた湯殿のつくりであった。盥が置いてあるのだが、縞のフランネルの洗濯物がよっぽど幾日もつかりっぱなしのような形で、つかっている。ブリキの子供用のバケツと金魚が忘れられたようにころがってある。温泉の水口はとめられていて、乾あがった湯槽には西日がさしこみ、楢の落葉などが散っていた。白樺の細い丸木を組んだ小橋が、藪柑子の赤い溝流れの上にかかったりしていたところからそこへ入って行ったので、乾きあがって人気ない湯殿の内部は大層寂しく私たちの目にうつった。
そしたら、その湯殿が、広業寺の温泉なのだった。尼さんは、いい年なのだそうだ。下から多勢の遊山客がのぼって来るが、急なその坂道は、眺望のよいのにかかわらず、いかにも辷りやすい。広業寺のもちものだから、横木を入れれば余程楽しるのに[#「しるのに」に傍点]。十本も入れてくれれば、何ぼいいかしん[#「しん」に傍点]ないのにねえ、と、山の茶屋のお内儀が話した。でも、尼さんは、そんなことはしないだろう。辷りそうなとき自分は、季節が秋であろうが、雪下駄を穿けば、それには辷り止めの金具がついているから平気だもの。正直にすべって、足許をこわがっているのは、私たちのような、よそから来たものだけだ。
その山の茶屋では、志賀高原の松の翠からこしらえた松葉茶を売っている。はじめて登って来た日に、私はそれをすこし買って、山口にいる良人のお父さんのところへ送った。ふと自分の父にも買ってやったらと思い、もういないのだと思ったら、胸のところがきつく、変な気持がした。
松葉茶をのんでいるのだろうが、この茶屋の隠居さんは腎臓がわるいとかで、凝った隠居部屋のわきの別室に寝台を置いている。お内儀さんが、わざと、そこの部屋の見えるように障子をあけた。きっと、山の中では珍しい寝台やその上にかかっている厚い羽根布団を見せたかったのだろうと思う。
二階の見晴しの部屋に、広業が松を描いた六曲の金屏風が一双あって、よく日に光っている。また、三間のなげしには契月と署名した「月前時鳥」の横額がかかげられている。これは恐ろしい雲の形と色とである。一緒に眺めていた栄さんが、広業って寺崎広業でしょう、ここの人かしら、お寺も広業寺っていうんでしょう、というには、よわった。私はそういう由来については知らないし、心で、契月がこういう鈍感な雲と月とを描くのであろうかと思っていたところだったので。
ゆうべ、八時頃、下から登って来たら、バスの女車掌が運転手と、あした、八百名、自由行動だってさ、晴れたら歩くだろう、と話していた。その八百名のほかにも、襟に黄色い菊飾のしるし[#「しるし」に傍点]をつけたような善光寺詣りの連中がのぼって来ているだろうのに、山々の見晴しはどこまでも静かで、暖かで、遠い河の細い燦めきまで、紅葉した桜の梢の下に展けている。
ゆうべ、八時というのは、長野の町へ出てのかえりであった。
善光寺を建てた坊さんは、長野の市街が天然にもっている土地の勾配というものを実にうまくとらえ、造形化したものだと思う。見通しの美的効果というものを、敏感に利用している。その勾配を、小旗握った宿屋の番頭に引率された善男善女の大群が、連綿として登り、下りしていて、左右の土産物屋は浅草の仲見世のようである。葡萄を売っている。林檎を売っている。赤や黄色で刷った絵草紙、タオル、木の盆、乾蕎麦や数珠を売っている。門を並べた宿坊の入口では、エプロンをかけた若い女が全く宿屋の女中然として松の樹の下を掃いたりしている。
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング