るから、生活の細部の行動では日常の卑近なあれこれに主観的な誇張された感慨をうちかけて行かざるを得ない。観念形式の嵩だかさと日常の卑近さの間にあるこの分裂は、ある理想の日常性への具体化ということとは全く違う本質である。真摯だという点で一定の読者への影響をもっているこの作家の考えること[#「考えること」に傍点]それ自体に良心の意義を主張している創作態度は、客観的には知識階級が今日如何に生きるかを考えるという満足のために考えるポーズに拍車を加える結果ともなっているのである。
 この如何に生きるかという命題は、阿部知二の諸作のテーマでもある。この作家は島木健作とは異って、「冬の宿」、「幸福」等にみられる通り、思想と行為の分裂やその二つのものの機械的な綯い合せの域を一歩進めて、生活全面の無目的な自転を、その文学の中に追跡している。その意味では、島木の文学の所謂健全性がその髄に飼っていてそこから蟻と蜚※[#「虫へん+廉」、第3水準1−91−68]《あぶらむし》のような関係で液汁を吸いとっている時代の虫を、阿部の文学は彼流の知性のつかわしめ[#「つかわしめ」に傍点]のようなものとしていると思える。

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