既に自身の文学の対象として真に生ける現実と人間とを捉えることをやめていた作家たちが、あらゆる意味で最も近代的に錯綜した一社会現象として現れている事変の局部に傍観的な記録者として近づいたとしても、その全局面を歴史の上に把握出来ないのはもとより、感情としても決してそこに生き戦い死しつつある人間の感想、情緒を映すことは不可能であった。そのような客観的現実としての民衆は、かつて「民衆は客観的には存在していない」といわれた時から、文学の対象として生かされ得ないめぐり合わせに立たされたのである。
 それらの理由によって、当時の報告文学は、報告文学本来の客観的な事実の記録とは全く遠いものとして現れた。即ち、それぞれの筆者の主観と感情の傾向に支配されて、ある文章は無垢な天の童子の進軍の姿のように、ある文章は漢詩朗吟風な感傷に於て書かれた。そして、そのいずれもが等しく溢れさせているのは異常な環境のために一層まざまざとした筆者の個性の色調であった。
 当時文学が新しい素材の源泉とリアリズムの深化の契機を報告文学に求めようとしたことと、そこに見出された不満との関係は、その数年来文学が転々して来た動向から見て
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