先ずそれを唱える人々が、その不安を追究する方法をもっていないことで忽ち深い混迷に陥った。社会と文学との感覚で不安は感じられているのだが、不安の彼方に何を求めて、どう不安を克服しようとしているのかと云われると、その答えは不確なものたらざるを得なかった。不安への批判の精神を否定した出発は、窮局に於て人間精神が不安に翻弄される結果となり、不安を自己目的として不安する状態を、精神の高邁とするようなポーズをも生じた。人間のモラルを現実とのとりくみの間にうち立ててゆくことが目指されずに、観念の中でモラルを模索しているその自己の意識の周囲を我と眺め味い歩きまわる作家の態度は、当時横光利一によって代表された。彼の云う「高邁なる精神」「自己探求」「自意識の文学」等の標語は悉く、以上のような当時の文学精神によったものであった。
「新興芸術派」時代「主知的文学論」をもって立った阿部知二の「知性」の本質も根本に於てはやはり横光利一の「高邁なる精神」と同様に、現実的な人間像への芸術的肉迫を回避して、自我の意識の中で主観的に或はロマンティックに感得されている知性である。文学の傾向としてこの二者が当時相呼応するもの 
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