流露としてそれを高く評価したい感情の傾きにおかれていたことは興味ふかく回想される。或る種の眼には実にわがもの顔に文学の領域を踏みあらしていたと思われる左翼の文学が、今やそのような形で自身への哀歌《エレジー》を奏している姿は、一種云うに云えない交錯した感覚であったろう。
 転向文学と云われた作品はそれぞれの型の血液を流したが、それは健康恢復のための射血ではなくて、時代の壊血症状というべき実況であったから、いかにその懺悔に痛痒き感覚を刺戟されたとしても、これまた新しい生活への飛躍の足がかりとはなり難い本質である。
 精神の空虚の感じが瀰漫し、その空虚の中で何かを捉えようとする焦燥は激しく自覚された。そして、ここから不安の文学という名が立ち現れて来たのであった。
 不安の文学は、当時知識人にとって現実は不安であるから、飽くまでその不安を追究せよ、という立て前に立てられた。目をそらさず瀰漫した不安を追究せよ、と云われたその言葉は雄々しげであったが、果して、それらの人々は不安を凝視してそこから何か新しい途を見出す社会的・文学的なよりどころを客観的に包蔵していただろうか。
 不安の文学という声は、
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