属性として扱われずに、技術という抽象的な游離で云われることは、かつてプロレタリア文学が世界観と形式とを切り離されたもののように示したことが誤りであったと同様に、芸術性の本質を離れた観方である。しかしながら、当時の人々が芸にとらわれてゆく心理は、小林秀雄の評論にも、横光利一の小説論にも、また川端康成が「水晶幻想」に赴いた足取りの中にも十分窺えることであった。「文章読本」の流行が始まった。
芸への愛好を伴う現実批判の衰退は随筆の流行をも招来した。内田百間の「百鬼園随筆」を筆頭として諸家の随筆が売り出されたが、これは寧ろ当時の文学の衰弱的徴候として後代は着目する性質のものなのである。
三
以上のような諸現象が、一部の作家の間に文学の危期としての警戒を呼び醒したのは極めて当然のことであったと思われる。
荷風の「ひかげの花」に対する余りの好評が、却ってその好評の本質への疑問を誘う機縁となったことは興味がある。「ひかげの花」に於ける永井荷風の人生への態度は、このようにして生きる一組の男女もある、と云うことの巧な描写に止っている。作品を貫いて流れているものは荷風年来の諦観である。その諦観にふさわしく統一された芸[#「芸」に傍点]の巧さがあるにしても、若い作家たちまでがその驥尾《きび》に附して各自の芸術の行手にそれを仰ぐとすれば、それは奇怪と云わなければなるまい。当時の文学の混乱もこの頃云わば底をついた形となって、漸々観念的な不安に停滞することも、荷風の境地に寄食することも許すべきでないとする一種の見解、気力が生じ始めた。作家の精神と肉体とは現実に向って先ず活々と積極性をもって動き出さなければ文学に新生命はもたらされまいと云う要求が起った。当時のフランスの文芸思潮の積極的な動きがN・F・R誌などを通じて日本へもその影響をもたらしたこともある。「行動主義の文学」「能動精神」が雑誌『行動』を中心として、舟橋聖一、豊田三郎、田辺茂一等によって提唱された。
満州事変以来四年を経て、その年(昭和十年)は日本の文化が新たに遭遇しなければならないめぐり合わせについて、美濃部達吉博士の問題その他をめぐって、一層痛切に感じられた時でもあった。文化の擁護、知識の健全性の防衛と云う一般の要求が能動精神の提唱される一つの社会的雰囲気として槓杆《こうかん》の役目をした。文学以
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