ひとたちは、自分の身一つの厄除けを家運長久とともに、神へでも願をかけ、何かの禁厭をして、その年を平安に送ることに心がけたのだろう。
 暮になったとき柔和な顔を忙しさで上気させている弟の家内の日頃の姿を目に浮かべ、私は何を三十三のお祝にやったらいいだろうと考えながら銀座を歩いた。
 私が十九の時母は紅白の鱗形の襦袢の袖を着せた。三十三もやっぱり鱗なのかしら。私の三十三歳の一年などというものは、はたも自分もそんなことを思うどころでない朝夕の動きの間で過ぎたのであったが、もし本気で厄除けなどを考えだしたら、今年のような世の中を凌ぐ主婦たちに、どんな禁厭が利くというのだろう。それを思うと、今日では女の身の上にも昔の厄の呪文のような輪なんか、とうにもっと大きいものの中にふっ飛ばされてしまっていることが痛切に感じられて、面白く愉快な気持がした。
 私たちの今日の生活では、自分一つの身を安泰に保つ可能などというものが云ってみれば根底から失われて来ている。自分だけで除けられる厄というようなものは、せいぜい健康上の注意位のものだろう。そのことにしても、既に一般的な困難の条件の上に見出される種類のものとな
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