待った。実に待った。その引絞るような期待に報ゆべく現われた男は誰かと言えば、彼女達のげっそりしたのも無理はない。いつも××寺の高い段々を降りて夕飯に来る東京の本屋と、小松屋に十日ばかり泊って鎌倉の町へ移ったペンキ職二人きりであった。くさくさした彼女等は、半自棄になって音なしい本屋をとり巻き、いしを先頭に、小声で途方もない唄を唄っては、ジャランカ、ジャンジャン、
「ああ、こりゃこりゃ」
と騒いだ。が、翌朝、愉快に床を出た者は家じゅうに一人もない。どの顔を見ても文句がつけたそうであった。その鬱憤から始まった口争いでお柳とせきがいがみ合うのが、台所で、もちについた魚のしがくをしていたいしの癇癪に悉く触った。彼女は、骨格の逞しい、丸髷をのせた、写楽の絵まがいの顔を突出して叱った。お柳が負けずに遣りかえした。喧嘩は思いがけない方に飛火した。いしは、
「何もおがんでいて貰う女じゃああるまいし、大概にするがいいや」
ときめつけた。すると、お柳は、我意を得たというように、鎌倉へ帰れば云々と捨科白をなげつけて、さっさと引取ったのであった。いしは、田舎風な束髪に結い、どういうわけか看護婦のするような白い角帯を巻きつけた装のせきに、
「ああ、却って気楽でいいね、私だってお前さんの方が好きさ。気ばかり強くて、あんな奴! 何をして来たか知れたもんじゃありゃしない」
と、愛素を云った。
 威張る者がいなくなった代り、せきはいそがしくなった。彼女は、朝割合早く起きなければならなかった。昼になると、まるで暑い鉄道線路に沿って二十余も賄の出前をしなければならなかった。彼女の立場は丁度、働き者が二人では手が余りすぎる。然し、一人では無理だというところなのであった。
 元、質屋の番頭をした亭主は、体も顔も小作りで、陰気な様子で天気なら畑仕事に出た。いしは、殆ど一日中襷がけで、台所や納屋の間を跣足《はだし》で往復した。出来るだけ材料をかけず、手をかけず、賄料理をしながら、彼女は種々考えた。彼女は、若い女中を前からさがしているのであった。十六七か、せめて二十どまりの。お柳やせきのように、三十近くまで流れ歩いた女など、何と使い難いことだろう。おまけに、綺麗ででもあることか!
 実を云えば、いしには口惜しいことが一つあった。小松屋のつい近所に、たから亭という、矢張り酒を飲ませる家が一軒あった。碌に客間さえないよ
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