ればいいんだ。勉は強くそう思った。そうすれば、ミツ子が厄介になったのをいいことにして、勇の次男坊気質を助長させながら「長男の貴様」にまた食い下ろうとする狡い性根もいくらか癒るだろうし、勉の仕事の性質ものみこむだろう。こっちの暮しを目で見て、一緒に思い知ればいいんだ。
 説明されて見ると、乙女もそれを不自然なこととは思えなかった。
「――いいかしんないね」
 乙女は、眼を大きくしたまま、しかし腹からのように合点をし、舌を動かしてゆっくりと自分の唇を上唇、下唇となめまわした。
「――じゃ手紙書いてやろう……お前先へねれ」
 勉は、貞之助へ手紙を書き、それから別に長いことかかって薄い紙に何か書き、それぞれ別の封筒に入れ、一つの方を部屋の外へもって出て、どこかへしまった。
 床に入って、顔を障子の方に向けているだけで、乙女は眠ってはいなかった。勉が、お前さきへねれ、そういうときは、何もきかず床に入るか、台所わきの三畳へ行くかするのが、乙女の常識となっているのであった。
 勉は、こまかい字で物を書いている間、ときどき掻巻の袖から左の指先を出して、耳の傷を押した。骨を削られて耳の後はぺこんとへこみ、ガーゼがつめられてある。寒さと疲労とで、今もそこがずきずき痛み、頭の半分が重たい。その耳のうしろには手術の傷のほかにもう一つ、ひどいひきつれ[#「ひきつれ」に傍点]の跡があった。それは一九三〇年の冬、勉が「文戦」の方針に不服で脱退し、「戦旗」の活動に参加した当時、「文戦」の鳥打帽の写真で知られている石藤雲夫に、焼ごてを押しつけられたひきつれ[#「ひきつれ」に傍点]であった。

        二

 祖父《じっ》ちゃん。祖母《ばっ》ちゃん。アヤ子。勇。それにミツ子。これだけの人々が、間もなく上野のステーションから様々な色と形の風呂敷づつみと一緒に無言のまま小祝の二間のトタン屋根の下へ運びこまれ、床の間の上へまで煤くさい、どれをあけても襤褸《ぼろ》に似たもののつまった包みを積みかさねて生活しはじめた。
 勉夫婦の暮しぶりは変った。
 朝、五時、まだ暗いうちに貞之助が先ず床の上へ起き直り、ところ狭く眠っている一家の顔の上にパッと電燈をつけた。そして、煙草をふかし始めた。パン、パン。煙管《きせる》をはたいた。煙草盆は、祖母ちゃんがちゃんと出して置いてやるのである。
 物音で、昨夜二時頃床に入った勉が苦しそうに寝返りをうち、夜具をかぶった。
 やがて、ミツ子がじぶくり出す。はじめ夢中で背中をたたいていてやった乙女がすっかり目をさまし、勉が起きるのを心配しながら小声でいろいろすかそうとすると、猪首のミツ子は、わざとそれを撥き返すように体を反らせ、
「いやーァん、ばァちゃーん! いやーァん」
 半年の間の習慣で、ばァちゃんを呼びたて泣き立てた。
 すると、祖母ちゃんが、寝床の中から前掛を締めながら立って、
「さアさ、ミツ子、泣くでねえよ、な、まんまやっから泣くでね、な?」
 飯をもって乙女の床のところへ来てミツ子にあてがうのであった。
 勇が続いて起き、アヤが起き出し、勉も眠っておれず薄い蒲団をあげた。
 勉が寝不足で蒼く乾いた顔を洗う間、祖父《じっ》ちゃんは草箒で格子の前あたりをちっと掃き、掃除のすんだ部屋へ上って坐った。アヤがチャブ台を出す。勇は、祖父ちゃんの拡げた新聞の間から落ちた色刷りの広告を、畳へおいて見ている。
 道具のない台所で飯の仕度をしている乙女が、
「――祖母《ばっ》ちゃん、ちいと吸って見な」
 この頃は眉がつり上ったきりになったような表情で、そこに跼《かが》んでいるまきに小皿をさし出した。まきは、音たかくその味噌汁を吸った。
「よかろ……」
 乙女と祖母《ばっ》ちゃんとは、味噌汁を薄めてそこへうんと塩を入れたものを皆にのませはじめたのである。
 小さいチャブ台にぐるりと膝をつめかけ、ミツ子までものも云わず、非常にはやく、一家は朝飯をくう。
 それから出かけるまで時間があっても、勉は殆ど誰とも口をきかなかった。縁ばたに近い方へ腹這いになって本を読んだ。思い出したように祖父《じっ》ちゃんに向って、
「――おやきの鉄板どうしたかね?」
などと訊くことがあった。
「売って来た」
 ぽっきり、貞之助が答える。二人の間で話はそれ以上のびないのであった。
 勉が、すり切れた紺外套を着て出かける。貞之助は、そういうときでも決して気軽に立って来て見ようなどとしなかった。手織木綿の羽織の肩を張って坐っているのであった。
 夜になって勉が帰って来る。電燈がついているだけの違いで祖父ちゃんは一日たったのにやっぱり朝いたところで、新聞と煙草盆とを前におき、坐っていることが多かった。勉の留守には乙女が、祖母ちゃんが才覚してもって来た粉でそばがきぐらいをこしらえ皆
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