簿をくってでもいるらしく暫く黙っていたが、やがてガチャリと佩剣の音をさせて足をふみかえた。
「それで……息子の勉っていうのが行方不明なんだな?」
 乙女は、ミツ子の小さい桃色のズロースを握ったなり、耳の内がカーンとなるような気持である。祖母ちゃんは、いつものゆっくりした低い叮嚀な声で、
「へえ」
と答えている。
「どうして家出なんかしたんだね、子まであるのに――」
「…………」
「――放蕩かね」
「――まあ、そんなようなものでございます」
 乙女は肩に力を入れて俯向《うつむ》いたまま思わずも笑いかけ、祖母《ばっ》ちゃん、でかした! 本当に乙女はそう思った。
 三十年来、貧乏をしつづけながら、祖父ちゃんは自分ひとりでは飯もたけないままを押しとおしてどうやら勇も小学を出し今日まで暮して来た。いつか勉が、祖父ちゃんは祖母ちゃんで持っているのだと云った。こういう場合に、乙女は祖母ちゃんのその一生懸命な気働きを感じるのであった。
 数日の間、乙女は「すずらん」の緑や赤の埃っぽい色電気の下でも、ふと「放蕩かね?」「――まあそんなようなものでございます」という二つの声をまざまざと思い起した。だが一度、一度と思い起すたびに、それに絡んでくる乙女の感情は複雑になった。
 勉が放蕩をするような男とは反対の性の男であることが、おまわりとの会話を何とも云えずおかしく妻としての乙女には寧ろ愉快にさえ感じさせたのだが、勉のその確かりした気質について真面目に思いすすめると、乙女は自分と勉とのつながりについてこれまでになく深いものを感じた。
 急な情勢の必要から、勉は乙女があれこれ考える暇もなくよそに住むようになった。勉は放蕩から自分をすてる男でない。今まではそこまでしか考えのうちになかった。が、自分が運動についてゆけなければ勉は自分を妻にしては置かないであろう。今では、動かし難くはっきり乙女にそのことが会得された。万一そういうとき、それでもと勉にからみ、恥かしい目を見せることは乙女にとても出来なく思われた。プロレタリアの運動の価うちと勉のねうちがいつしか身にしみこみすぎている。乙女は、それらのことを考え、勉が家を出てから初めて、枕の上に顔を仰向けたままミツ子を抱いて永いこと睡らなかった。
 もうセルの時候であった。
 明るい、細い雨がよく降った。雨ふりだと、しっとり濡れた前の杉苗畑から、若々しい杉の樹脂の香いが微かに漂って来て戸棚にアヤの骨壺がしまってある二間の家の縁ばたに匂った。
 おそ番の日で、乙女が勉のテーブルに向い本を読んでいた。こんな天気で商いに出られない祖父ちゃんが長いことかかって新聞をよんでいたが、やがて、
「おウ」
 火のない煙管を口からはなして乙女をよんだ。
「こんげにつらまっても、かまわぬものか?」
 乙女は何事かと思い、
「どれ?」
 立って行って新聞をのぞいた。三面の隅に、江東の職業紹介所で全協の労働者が二人あげられたことが数行出ているのであった。
 祖父ちゃんの新聞のよみかたが違って来た。乙女はそれを最近につよく感じた。却って勇なんぞの訊かないことを、この頃祖父ちゃんの方が訊いた。祖父ちゃんは、黙って乙女のたどたどしい説明をきいていたが、暫くして咳払いをし、棒をつき出すように、
「――駄菓子売の組合つ[#「つ」に傍点]はねのか」
と云った。乙女は、何だかどぎまぎして、眉をつり上げた。
「――知んないね」
 また暫くだまりこみ、祖父ちゃんは煙管をかんでいたが、その煙管をとると力を入れて灰ふきをたたき、云った。
「早く勉のいうような世の中になんねば困る!」
 それは、俺が困るという調子ではあったが、乙女は祖父ちゃんのこれは大きい発展であると感じた。
「んだからさ、祖父ちゃん、いつかみたよなこと云うもんでないてよ、ねエ」
 一ヵ月ばかり前、勉が着ていた冬外套を乾したとき、ぼろぼろになっているのを貞之助がひっくりかえして見、
「――男が、三十近くんもなって、東京さいて、こげえなもん着て歩かねばなんねえとは――甲斐性がね」
と云い、乙女が思わずかっとなって諍《あらそ》った。そのことを云っているのであった。
 祖父ちゃんは、しとしと雨のふっている外へ向ってゆっくり煙草の煙をはきながら、黙って膝をゆすった。
 乙女は間もなくからみつくミツ子を祖母ちゃんにだまさせながら着換えに立った。帯を結ぶ間も、大きい雨洋傘《あまがさ》を背広の小柄な体の上にさし、口を結び、こつこつと歩いて行く勉の姿が乙女に見えるような心地であった。



底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12
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