もりでいれ! かすれたり、そうかと思うとにじんだり、貞之助の頑固に毛ばだった眉毛を思い出させる不揃いの文字で罵倒しているのであった。小祝勉殿と書いてある封筒の下のところに、ひどい種油の汚点がついて、それがなかみまで透っている。
故郷のA市で、貞之助はここ数年間、毎朝納豆の呼び売りをしていた。おふくろのまきは夜になると親父をはげまして自分から今川焼の屋台を特別風当りのきつい、しかし人通りの繁い川岸通りまで引き出して一時頃まで稼ぎ、小学を出た弟の勇は銀行の給仕に通った。それで、妹のアヤを合わせて一家が暮しているのであった。
勉夫婦が、三つのミツ子をそんな暮しの中へあずけたのには、わけがあった。
前年の春、勉は仕事をしているプロレタリア文化団体の関係でやられ、びんたをくわされたのが原因で、悪性の中耳炎になった。勉は脳膜炎をおこすほどになったとき警察から、施療の済生会病院へ入れられた。そこでは軍医の卵が、一々そこを切れ、あすこをつめろと教えられながら勉の耳を手術した。その後の手当も専門医が診てびっくりしたほど粗末な扱いで、夏に入って、極めて悪性の乳嘴突起炎を起した。友達のつてで別の病院に入院したが危篤の状態が一ヵ月以上も続いた。コサック帽のように頭に巻きつけた繃帯の上まで血をにじませて寝ている勉が果して恢復するかどうかということは、耳鼻科主任の、練達な手術を施した医者にさえ明言出来なかったのである。勉を生かそうとする努力の裡で乙女は友達の着物をかりて質に入れるようなひどい苦面をし、やっと夜汽車にのってミツ子を祖父《じい》さん祖母《ばあ》さんのところへ謂わば押しつけに置いて来たのであった。
二円、三円と金を送れたのは、初めの二三ヵ月のことであった。秋が深まってから、乙女は手編の毛糸マントをミツ子に送ってやった。養育費を送るという年より達との初めの約束は実現されなくなった。勉の命はとりとめた。けれども、その春以来、彼がその団体で献身的に働いていた出版部の活動が非常な困難に陥った。人手がなく、そして、金もなかった。朝、勉が丹精して集めた古い「マルクス主義」の合本を抱え、外套の襟を立てて耳の傷をかばい表から出かけると、乙女がその後を締めて水口から自分もついて出、顔なじみの古本屋の店頭で勉から十銭玉いくつか貰って引かえす。そういうことが一度ならずあった。
先ず、金を送って貰
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