、見つかるものかね。Aさんにその気がないもの」
「どうして? でも探して居るのよ。此頃家がないんですものね、困るわ」
「――まあ見て居て御覧。きっと見つからないから」
 自分は、母上の皮肉な微笑を、其時理解するに苦しんだ。
 Aは、黙って、毎朝昼近くまで一廻りずつ附近を廻って来る。
 〔約二百字欠〕むほどはっきり思い起した。――
 余り、横道に入らず、又、家のことに戻ろう。
 今居る片町十番地の家が見つかったのは、八月の下旬であった。
 赤門前に頼み始めた頃から、此処に空家のあることは分って居たのだ。が、自分には余り場所が悪く思われた。恐ろしく貧弱に感じられた。其上、先住が建てた風呂場を二百円で買うか、従来、三十幾円の家を五十円にするか、と云う条件つきなのである。
 大家の、虎屋と云う米屋が、家賃をむさぼることで近所で有名であると云う噂が自分を恐れさせた。出来るなら、其那面倒のない、其那無気味な大家の所有でない家に、仮令暫くでも棲みたく思ったのである。
 市外ならば、其程見出すのが困難でもないらしい。然し、自分等二人ぎりで当分はやって行こうとするのに、瓦斯も水道もない処で、どうしよう。要心のことも考えなければならない。
 貸家住いと云うことを知らず、家のないなどと云うことが、いつ当面の困難となるか思いもしなかった自分は、憤ろしいほど苦痛を受けた。
 一家の中で、他の誰も同様の熱心を示して呉れず、二人きりで焦慮し、新らしい生活の準備をしようとする心持は、何と云ったらよかろう。お祭りのように所謂お嫁に行った者は、一生経っても、此我等二人、と云う、深い淋しい身の緊る感銘は受け得ないだろう。Aは、国から五百円都合して貰った。其金と、自分等の書籍と、僅かな粗末な家具が新生涯の首途に伴う全財産なのである。
 兎に角、いくら探しても適当な家がないので、仕方なく、まだ人の定らない、十番地の家にすることに決定して仕舞った。
 敷金と、証文とをやり、八畳、六畳、三畳、三畳、台所、風呂場、其に十三四坪の小庭とが、我が家となったのである。
 八月の二十八日から九月三日まで、Aは毎朝早くから、善さんと、新らしい家の掃除に出かけた。善さんと云うのは、出入りの請負の下働で、当時、H町で、隠居所を建てて居た為、彼は毎日顔を見せた。少し耳の遠い出歯の、正直な男で、子供の居た先住の人が住み荒した廊下、
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