りますね。H町より乾いて、お涼しゅうございましょう」
まつが、雑巾を持ち乍ら、庭を見る。成程、気がつかなかったら家は西向で、午後になると、日が、真正面から座敷一杯に差し込むのである。
困ったことだ、と思った。自分は、ひどく眩ゆいのを嫌う。どうするか、と案じた。が、もう、それを云っても仕方がない。
動くと気分悪く、神経的嘔気を催すので、部屋の敷居の処に倚りかかり、指図をして、近所の蕎麦屋へ行かせた。
職人にやる金を包み、皆に蕎麦を食べさせ、裏の家と医者の家に配り終ったのは、もう夕暮に近かった。
H町に居ては、見られない鮮やかな夕映が、一目で遠く見渡せる。
崖に面した四尺ばかりの塀際には背の高い「ひば」が四本一列に植って居る。その、デリケートな葉が黒く浮立ち、華やかな彼方の色彩に黒レースをかけたように優雅である。
まつを、いつまでも止めて置くことは出来ないので、我々の夕飯の仕度に鰻を云いつけさせて、帰した。
急に四辺が、ひっそりとする。
自分は思わず、真心をこめてAをエムブレスした。何と云う感銘の深い夕暮だろう。
Aはおなかが空いて居るのを知り、いつまでも食事が出来ないのを気の毒に思った。やっと、八時頃、命じたものが来る。
自分は、八畳の灯の下に、一閑張の小机を出し、白く糊の新らしいサビエットを拡げ、夕餐の用意をした。お茶を飲もうとする茶碗も、箸箱も、皆、今度新らしく二人で買い調えたものだ。
卓子に向って坐ると、二人は、感動し、我知らず祈を捧げる心持になった。
今から、自分達の、二人きりの、生活が始るのだ。どうぞ幸福であるように。彼も、自分も幸福であるように。――
箸をとったら、鰻は、まるで油紙のようにくさい。危く自分は感傷的になりかかった。
Aが、又蕎麦屋へ行かなければならなかった。夕飯を、兎も角済したのは九時過ぎて居たろうか。
引越の前から工合が悪かったので、自分は、又、翌日から床について仕舞った。
H町からまつに来て貰い、翌晩は、ひどく神経的になって、細井さんを呼ぶほどであった。
Aは、さぞ心配されただろう。
然し、其那に長くは悪くなかった。四五日で起きた。
或境遇に、人間が馴致されると云うことは、人々は理論として明に知り、また客観的観察として、屡々口にする。而も、其当人が、自己が如何那境遇を持ち、それに自己の性格のどんな部
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