発揮されていないというのが、去年あたりまでの座談会などでの感想だった。その現実から、年かさの女学生はまじめに社会生活を考えるひとほど、日本の民主化がこういう風では、女性として伸びてゆくさきがつまっているという実感をもってもいたのだった。結婚と仕事とは、女性の幸福にとって両立し得るものだろうかという疑問をもふくめて。
ここに集められた十七歳の世代の人たちの記録をみると、そんなところにも、何とも云えず生々とした変化がおこっているのを感じる。「一つの思い出」にワヤワヤと響いている声々のうちに「失われる緑」や、「春から夏へ」の、一人の少女が若い女性へとその蕾の勢で苞《ホウ》をやぶってゆく生活の記録のうちに、もう日本にも新鮮な小さい婦人たち――little women がのびつつあることを、ひしひしと感じさせる。彼女たちは、人間の小さい男が少年であることをあやしむものがないように、人間の小さい婦人としての少女の人生を、いっぱいに生き育とうとしている。共学は、いくらか神経質に互を眺めあう場合ではなくて、人間の小さい男と女とが集って一緒に学び、いろいろの研究や催しをもち、ときには競争しながら互にディスカッションし批判しつつ、おのずから能動的な社会活動の機能力をつよめあってゆく場面となって来ている。
みんなの前に立って、自分の意見を発表することをあたりまえのこととする習慣の少女たちが、きょうの日本にふえてきているという事実。歴史はこういうところからこそ変ってゆくのだ。同時により大人の女に近づいた十八歳ぐらいの若い婦人たちが、実際問題としての結婚や職業の問題につれ、まだつよくつよくのこっている旧い日本の家の観念、世間というもの、常識のしきたりについて身と心で抗議を示している姿も、わたしたち日本の足どりにある旧いものと新しいものの複雑な摩擦について考えさせる。
ここに発言しているいきいきとした小さい婦人たちは、彼女たちが十五歳から十八、九歳の女性の肉体と精神とで感じているあらゆる問題こそ、つまりはその人々の一生で解答されてゆかなければならない課題だということについて、どのように自覚しているだろうか。
人類の社会生産とその文化の歴史にとって鉄の時代は、太古の一頁である。けれども、一人一人の成長と発展の過程には、丹念に青春の青銅時代《ブロンズ・エイジ》がもたらされている。そしてその
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