には、その上の御機嫌伺迄出来ないよ、そういうのは、馬鹿正直というんだ。
やす子 それは奥さんのなさりかたも感情的ね。――でも……何だか気が済まないようじゃあありませんの? さっぱりしませんわ、電話をかけましょうよ。
良 三 ――少しは胆にこたえたか、と云って奥さんは、いよいよ壮重な涙を「幾百の幼児のために」こぼすだろう。
やす子 随分意地ずくね(目に止まらぬ寂しき笑)……無理にかけようとは申しませんことよ。
良 三 (黙々として楊子を使いながら、夕刊を見はじめる。いくら辛辣な言葉を吐いても、気分のうっとうしさは散じきらないという様子)
やす子 せっかくの御飯が台なしになりましたわね、いけなかったこと。(努めて良三の気を引立たせようとする本能的な心づかい。ちょいちょい彼の方を見ながら、食卓を片づけ始める。)
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遠くで、子供の泣声がする。だんだんそれが近づくにつれてやす子の注意がその方に集注される。
[#ここで字下げ終わり]
やす子 (手塩《てしお》を親指と央指《なかゆび》とで抓《つま》みあげたまま、耳を立てる)つやちゃんだわ……どうしたんだろう今頃……(振返って、茶箪笥の上の時計を見る)
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泣声はだんだん近より、八つ手の植込みのかげの部屋で、
「さあ、よい子よい子、つや子ちゃま、なきなきおやめあちょばせよ」
と子守が節をつけてあやしているのが聞える。
子供は泣き止まない。
[#ここで字下げ終わり]
やす子 (独白)困るわね、泣くと連れて来るんですもの。
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やす子、子守に負けるものかというように食器を盆にのせたり、水|焜炉《こんろ》の火を長火鉢に移したりする。
がとうとう気になって堪らなくなった声で子守を呼ぶ。
[#ここで字下げ終わり]
やす子 たみ、こちらへ連れておいで。
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待ちかねていたように、「はい」と返事が聞える。上手の縁側から、たみ、白い前掛に、染絣《そめがすり》の着物、赤まじりの帯で、つや子を抱いて来る。
つや子は、可愛らしい友禅の袖なし、大きな犬張子の縫をしたエプロンをかけた、色白の肥った愛らしい子、右の手で耳の辺を払うようにしては啜りあげている。母の顔を涙の裡から見て、小さい手を延す。
[#ここで字下げ終わり]
やす子 はい、はい、つやちゃんや、どうしたの、え?(可愛くて堪らなそうにたみ[#「たみ」に傍点]の手からとり、頬ずりをする。顔を離し)ばあ!(と笑う)
さあ、いいお顔をして頂戴、いいお顔はどんなお顔? ほら、いないいないばあ! ね、父ちゃま、はいはいはい!
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つや子を膝の上に立たせ、笑わせようとする。たみ傍に膝をついて、手を打ちながら笑って見せている。子供は、笑いたそうにしては、また顰《しか》め顔になって泣き出す。
[#ここで字下げ終わり]
やす子 まあ、どうしたのだろう(子守に向って)余程前からこんななの?
た み いいえ、それほどでもございません。何だか不意にお泣き出しになって……
やす子 どうしたんでしょうね本当に。
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いろいろやって見る。つや子の機嫌はなおらない。
[#ここで字下げ終わり]
一寸、貴方!(良三の背中を呼ぶ)済みませんけれども一寸見てやって下さらないこと?
良 三 (やや面倒くさそうに)おむつだよ。
やす子 そんなことあるもんですか。……取りかえてやってくれたろう?
た み 今一寸前すっかりおなおし致しました。
やす子 それだものね、おむつじゃあないわね。父ちゃま、何でも、おむつでは困りますよっておっしゃい、つやちゃん。
ぱぱぱぱ(つや子の小さい指を、自分の唇に挾んで鳴しながら、あっちこっち丸い体を検べる。ふと右の耳を見ると一緒に、やす子の顔付が変る。あわててつや子を横に抱きなおし、懸命な顔でそこを見る。ぞっとした表情。さっと蒼くなる)まあ、貴方! 大変よつや子の耳が!(震えながら、なおもなおも耳の上に屈《かが》む)
良 三 耳が? どうしたんだ。(ぱっと立って来る)
やす子 耳から血が、これ、こんな、塊《かたま》って出ているのよ。
た み (顔色を変える)ほんとでございますか?(二人の間から覗き込もうとする)
やす子 ほら! 御覧なさい。こんなよ、どうしましょう。(せわしく良三とつや子の顔に眼を走せる)
良 三 (無意識に緊張し、そっと耳の周囲を押して見る、つや子火のついたように泣く)
やす子 (もう真蒼になり、我知らず厳しい声で)たみお前どうもしやしまいね。
た み (おろおろする)まあ奥様!
良 三 まあいいから、早くあの書斎の机から反射鏡を持って来い。銀色の平べったい、ほら知ってるだろう、黒い柄のある。――
た み はい(立つ。後から)
やす子 熱度計りもね、赤いかさ[#「かさ」に傍点]に入ったのよ。
内部《なか》からでしょうか(灯に覗くようにする)外に傷はないわね。
良 三 (自らなる不安、頭を重ねてやす子と同じ処を見るようにする)どうしたのかな、変だね、急にこんな出血をするなんて、まだ新らしく出て来るかい?
やす子 そうでもなさそうですわ。
良 三 (頭をつや子から離し)今迄どうもありあしなかったんだろうね。
やす子 (憤然とする)そんな不注意だと思っていらっしゃるの? さっきまで平常《ふだん》の通りだったんですわ……(まるで異った、苦しげな涙のつまった声。一語一語力を入れて)貴方……だいじょうぶ?
良 三 何が?
やす子 何がって(睨《にら》むように顔を見合わせる)定《きま》ってるじゃあないの、若し……若し(泣き出す。急につや子を強く抱きしめ)可哀そうにね、つやちゃん、早くよくなって頂戴! ほんとにかあさんが願うことよ。堪らないわ、私。――痛いの? え? 痛むの?
良 三 (真剣になって来る)痛いから泣くのさ。
とにかく、大切なお前からそう上気《のぼ》せあがっては駄目だよ、確《しっ》かりしろ確《しっか》り!
ほい、ほい、つや子、つや子。(あやしながら職業的な落付を失わずに脈を数える)ふむ。
た み (殆ど馳けて二品を持って来る)はい。
良 三 (反射鏡で耳の内部を照して見る。息を潜めた周囲の沈黙。無言の裡に自分の位置を変えたり、つや子の頭を動したりした後)見えないね一向。中が汚れているせいだろう。
やす子 (急に良三をせき立てる)仕様がないわね。貴方で駄目なら、どうぞ早く横田さんにお掛けになって頂戴よ。熱を計って見ますから。ね?
良 三 そうしよう。(行きかける)
やす子 (後から)頭でも冷してやらないで大丈夫でしょうか。
良 三 (廊下へ踏み出しながら)まあともかく聞いて見よう。(去る)
やす子 (身も世もあられない様子で、泣きじゃくるつや子の顔を見つめる。涙がひとりでに頬を落ちる。強いてはっきりした声で、その方は向かずに)たみ、ぱいぱいさんを持って来て御覧。
た み はい。空《から》ぱいでよろしゅうございますか?
やす子 ああ。早く。
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たみ、急いで茶箪笥のガラス器の中からゴムの乳首を出して来る。
やす子、片手でこれをつや子にあてがったまま耳を澄ます、ベルの音。話声がはっきり聞えて来る。
[#ここで字下げ終わり]
良三の声 あ、番町の三千九百五十六番……ああ、もしもし横田さんですか? 先生は御在宅ですか? そう、僕は中西ですが、一寸電話口まで出て頂けるでしょうか……ええ、――どうぞ。
やす子 (僅にほっとしたらしく囁く)いらっしゃるらしいね。
た み さようでございますね。(共にきき耳を立てる)
良三の声 やあ横田君か? せっかくお休の処を偉い邪魔をしたね。――いや、どう致して。……そうだろうとも。
実はね、突然だが、うちの赤坊が、先刻から妙に泣き立てると思ったら、どうかして耳に少々出血しているのさ。何?――ああ、見たがね、駄目だよ、別に脈搏に異状もないから大したことじゃあなかろうと思うんだが、何しろ、当人より阿母さんの心配の方が激しい有様だから気の毒でも、一つ来て貰えないだろうか。若し都合して貰えれば、直ぐ車をやるが。
やす子 (確かりつや子を抱きながら、一層注意を傾ける)
良三の声 フム、フム、そうかい――それは困ったな。
やす子 (思わず、はっとする、つや子を抱いたまま立上る。)
良三の声 いいや、決してそんなことはない。仕方がないさ。そうそうはお互に務まりかねるからねハハハ(強いて快活な笑声)――じゃあそうしてくれ給え、三谷にでも訊いて見よう、ウム有難う、じゃあ失敬、忙しい処を迷惑だったね……失敬。
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ベルの音。
[#ここで字下げ終わり]
やす子 (まだ姿の現れない良三の方に顔を向けて、言葉をかける。非常に焦立った不安な声)どうでして? 駄目?
良 三 駄目だとさ(云いながら出て来る)謡の会があって自分が主宰者だからどうしても今夜は抜けられないと云うんだ。(わざとやす子を見ず、つや子を覗き込む)どうだね?
やす子 まあ! 謡ですって? 呑気ね、(やす子失望と不安で我知らず自制を失う)抜けられないって、一晩中掛るのじゃあ、あるまいし。あの方の謡なんかより、つや子の命の方が、よっぽど大切ですことよ。(良三を鋭く見る)うんそうかって引込んでいらっしゃる貴方も貴方ね。
良 三 おい、おい(たしなめる)「奥さん」になるなよ。そう無茶を云ったって仕様がないじゃあないか。(二重の意味ある声)あの男だって、偶の楽しみであって見ればフイにされたくもなかろうさ。(心に湧く感情を、強いて紛らすように、髭の辺を撫で、部屋を歩き廻り始める)
やす子 (忽ち、或ることを直覚する。鋭い表情で良三を見詰める)弁解?
[#ここから4字下げ]
やす子の顔には、歴然と不愉快、嫌厭の表情が現れる。唇をかみしめながら、無言で計温器を出し、灯にすかして見る。殆ど叱責するような語調。
[#ここで字下げ終わり]
やす子 貴方! 八度一分よ。(緊張した沈黙、じっと喰い入るように落付かない良三を睨まえていたやす子は、怒った牝獅子のように憤然として)貴方!(唇が震える。それをぐっと堪《こら》え)私は、貴方の意地で、子供を殺してはいられませんよ。
良 三 (打たれたように、やす子を見る。つや子を見る。益々落付きなく部屋を歩き廻り、立止り、何か云おうとする。が、止め、遽《あわただ》しく部屋を出、廊下に消える。)
[#ここから4字下げ]
やがてベルの音。
[#ここで字下げ終わり]
良三の声 (沈んで重々しく)小石川の九百五十二番。
[#ここから4字下げ]
やす子、思わず深い深い溜息をつき、つや子を見、涙をほろほろとこぼす。彼女は立ったまま、たみ、膝をついて中腰になったまま等しく眼を据えて、電話の方に耳を欹《そばだ》てる。――
               非常に、静に、幕。[地より11字上げ]



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月8日公開
2003年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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